第1章

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いつもの景色は、いつものように過ぎて行く。いつもと同じ場所でいつもの車窓を眺める。自宅最寄り駅の京急線上大岡駅から職場のある品川駅までは快特電車で26分。だけど私は45分くらいかかる。京急蒲田駅で快特電車を降り、各駅停車の普通電車に乗り換えるからだ。蒲田駅で人をかき分けてホームに降り、別の乗り場まで歩き、快特より人が少なく息がしやすい各駅停車の普通電車に乗り込む。何も考えることなく、オートマティックに乗り換え、だいたいいつもと同じ席に座ることができる。先頭車両進行方向右側の端の席。ファソラシド、の音でじわりと車体が動き出したあたりから、少しずつ私の心は硬くなり、気道が狭くなったように呼吸が苦しくなる。家々の屋根。新しくビルでも建てているのかクレーンも見える。すべての景色が右から左へと通り過ぎてゆく。次の梅屋敷駅に着くと軽く深呼吸をする。降りる人は少ない。乗り込む人は降りる人より少し多い。私は動かない。浅い呼吸だけ繰り返す。梅屋敷駅を発車して数秒を数えた頃、それは見えてくる。薄汚れた灰色の、小さなコンクリートの3階建てのアパート。くすんだ色の冷たい箱みたいなあの建物を、私はいつも息をつめてしっかりと見る。右から左へと。映画だったら、そのときだけ無音になって、数秒のスローモーションになると思う。歪んで引き伸ばされたような時間の中で、アパートだけをじっと見る。流れる。そして、見えなくなると、電車の響きと景色の流れる現実的なスピードが戻ってくる。私は振動を感じながら、今日もんなに泣きたくなるけど、ちゃんと見れた、と思う。呼吸は楽になっている。快特電車では一瞬で通過してしまう梅屋敷駅からの景色を、少しでも長く見るために私は各駅停車に乗り換える。わざわざ自分をいじめてどうなるというのだろう。そう思ってもやめることのできない、私のいつもの朝の、いつもの儀式。そして、正しい呼吸を確かめるように深く息を吐き、品川までは目をつぶって過ごす。外の景色は、私の目蓋の外で、流れている。   「弱い体はどうしたら強くなる?」 「鍛えればいいんじゃない?あと、いいもん食う。」 「鍛えるということは負荷をかけるということだよね。」 「そうね。」 「負荷をかけることを繰り返すのが、トレーニングというものだよね。」 「ま、そうだね。」 「たるんだお腹を引き締めるには?」 「腹筋。」
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