第1章

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生麦駅は、言ってしまえば何もない。 コンビニとパチンコ屋と煙草屋、あとはかろうじて居酒屋がポツポツとあるだけだ。 ちょっと時間をつぶすカフェもなければファーストフード店もない。 だけど美加子はなんだかこの駅が好きなのだ。 コンビニがあればなんとかなる。 10時の開店30分前に、職場である本屋に着いた。 オーナーである磯辺がもう入口のガラスを中から磨いているのが見える。 「おはようございます」美加子が挨拶して中に入ると 、磯辺は手を止めてこちらを見て おはよう と言ってまた手を動かし始めた。 父の友人ということで事務の仕事を辞めてふらふらしていた美加子を拾ってくれたのが磯辺だった。 なぜこの生麦駅の線路沿いに店をかまえようと思ったのか、 ここで働いて2年になるが口数の少ない磯辺からは何も聞かされていない。 なんでもない町の本屋といった雰囲気の店だが、この近くには他に本屋がないせいもあって意外と繁盛している。 「美加子ちゃん、今日、土曜日だよ」 磯辺がガラスを拭いていた雑巾をしぼりながら声をかけてきた。 「そうですけど・・・なんでですか」 美加子は着ていたジャケットを脱いで制服がわりのエプロンをつけた。 「彼・・・くるんじゃない」 そう言ってこちらを見てニヤッとする。 ほんとに・・・・・。 普段は余計な事を全然話さないのに、どうしてこういう話だけは食いつくのか不思議でならない。 彼というのは、ここ数カ月毎週土曜日に来る客のことだ。 なぜ毎週来るのかはよくわからないが、 立ち読みだけして帰ったり小説や漫画、雑誌を買って帰ったりする。 取り寄せをしたときから少し話すようになったのだが、 そのときから磯辺はちょこちょことそのことについて触れるのだ。 「そうですね。来るかもしれませんねぇ」 美加子はさりげなく言い、平積みの雑誌にかけてある布をバサバサを振った。 ・・・気にしてないと言ったらウソになる。 彼は豊田亮介、31歳。 この本屋の裏の通りを少し鶴見方面に行ったところのマンションに一人暮らしをしているらしい。 この情報と、取り寄せた本の連絡をする際に使った携帯電話の番号。 知っているのはそれだけだ。 でも、彼はとても背が高いし、顔もなんというか、美男子というわけではないがきれいな顔立ちをしている。
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