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そして微かに見覚えがある。
「声かけたとき、もう信号、赤だったんだよ。あとこれ。じゃ、急ぐんで!」
小さめな顔に対して、振り回している手は大きく、腕も足も長い。
落としたことさえ気づいていなかったキーケースを、彼は差し出した。そして、大きなショルダーバッグを揺らしながら、北品川駅へとダッシュしていった。
「あ、ありがとう!……ございます!」
背中に投げかけた叫びに彼は振り返り、素早く片手を挙げて下ろした。そしてまた前を向き、わき目も振らずに駆けていったのだった。
後ろ姿を見送っていると、彼の体から何かが落ちた。大声でその旨を伝えたけれど、彼には聞こえないようだ。わたしは走り出した。途端に腹が鳴った。
人の間を縫うように進んでいくと、アスファルトに黒い手帳が落ちている。
それを拾い上げ埃を払い、なおも走った。もう彼の姿は見失っている。それでも、改札を抜け、ホームに入った。赤い電車が遠ざかっていくのが見えた。肩で息をしながら辺りを見回したけれど、彼はいない。
溜息をつき、手帳をひらくと、挟んであった紙が落ちかけた。畳まれていたのが風で広がる。海鮮関係の店の名前がいくつかと、「◎取材時に訊くこと」として「・店の『売り』は何か」、「・大変なことと良かったこと」などが、筆圧の濃い字で書かれていた。
表紙裏の透明カバーに、何枚か名刺が入っていた。木山和樹というのが彼の名らしい。Kazuki KIYAMA と名前の下にローマ字で書かれている。聞いたことのない出版社の名と編集部・携帯電話の各番号も載っていた。
まず、携帯電話の番号に電話した。出ないので、出版社の方にかけてみた。事情を話すと、ミニコミ誌の編集長を名乗るさばさばして低い声の女が、丁寧に礼と詫びを言った。木山和樹は今日、三崎でまぐろ料理を出す店を取材するという。彼女は謝礼の支払いを申し出るとともに、さしつかえなければ手帳を彼に届けてもらえないか、と頼んできた。
三崎の海は、どんなだろう。
赤地に白ラインの電車に揺られていく。スマホで検索すると、三崎口駅と三崎港はちょっと離れていて、三崎港には、名物のまぐろが食べられる店がたくさんあるようだった。
住宅ばかりだった風景に山が混じり、ずいぶん経ってから海が現れ、でもちょっと見えたかと思うとすぐに海は視界から消えて、三崎口駅に着いた。
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