第1章

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「ああっ、申し訳ない。どうもありがとう!」  改札口で目が合うと、木山和樹は、大きく片手を挙げながら駆けてきて、頭を下げた。 「こっちこそ、ごめんなさい。わたしが横断歩道で立ちすくんでなかったら、手帳を落っことさなかったかもしれないし。あ、赤木紗南です」  わたしは深々とお辞儀し、ほんとにありがとうございました、と手帳を彼に渡した。 「ありがとうございます。あのぉ、このあと忙しいですか?」  名刺をくれながら、木山和樹は急に敬語になった。わたしが小さく首を横に振ると、 「よかった。じゃ、お礼に美味いまぐろをおごりたいんで、もう少し付き合ってもらえないかな。もちろん、編集長が言ってた謝礼は、別途きちんと払うんで」  とすぐにタメ口に戻った。笑うと、目尻に皺ができて人懐こい顔になる。相変わらず、目はジャムのブルーベリー粒みたいに黒光りしている。睫毛が長い。美形なのにどこかファニーに見えるのは、鼻の穴が大きめで上唇がめくれ気味なせいだろうか。  彼は、手帳を探していて携帯電話の着信に気づかなかったと詫びた。    もう一つ頼みがある、というので背筋を伸ばすと、彼は、「モデルをやってもらえないでしょうか!」と両手を顔の前で合わせ、上目遣いでわたしを見るのだった。  え、と顔をしかめ、わたしは固まった。 「実は、一緒に来るはずだったモデルの子が、急性胃腸炎になっちゃって。まぐろ料理だけじゃなくて、こう、食べてる子の写真がほしいんだよね、記事に」  木山和樹は指で箸の形を作り、口を大きく開けて何かを掻きこむ仕草をした。エア食事なのにやけにおいしそうだ。彼は再び、パチンと合掌し、頭を下げた。 「配布地域は限定されてるけど、顔出すのだめだったら、鼻から下でも。頼む。頼みます」  就業規則の副業規程はどうなっていただろう。まあいいか、あとで許可を得よう。 「わかったから、顔上げて」  そのあと、三崎口駅の前からバスに乗った。ちっとも海が見えないまま、木山和樹と並んで座席に座っているとき、中学校の廊下の映像が思い浮かんだ。向こうから歩いてきてすれ違う、夏服の少年。自分よりずっと背が低く、大きな目にいつも、何かをこらえているような、鋭く尖った光を湛えていた。暑い日でも両手をパンツのポケットに突っ込んでいたっけ。名前も知らない彼は、いつのまにかいなくなっていた。
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