第1章

6/9
前へ
/9ページ
次へ
「何で辞めるの。行けばいいじゃん、函館。美味そうだよ? 魚介類」 木山君は、長い睫毛を震わせながら、不思議そうに目を細めた。 「魚介はおいしいかもしれないよ? けど、遠すぎるし帰ってこられないかもしれないし」 「会社があるだけいいじゃない」  わたしは、底抜けに明るい木山君の笑顔を、まじまじと見た。返す言葉がない。 「寒い所ってさ、家だって雪の重みに耐えられる屋根にしなきゃいけないとかいろいろあるから。実地で勉強できるのいいと思うよ」  海はまだ見えなかった。 「あせるなって」と木山君が言ってからしばらくして、急に視界がひらけて眩しい光が車内に射し込んだのだった。  バスを降りると、潮の香りがした。口の中がぶわっとしょっぱくなる。小型船舶が何隻も停まり、緑がかった水の揺らめきが広がっている。春とは思えぬほど陽射しが強い。  海だ、と立ち尽くす。茶色い大きな鳥が、ピィィヒョルゥゥーーーと鳴きながら空を舞っている。タカ? と訊くとトンビだよ、と木山君は笑った。  ぐるっと見渡しただけでも、食べ物屋が何軒も目に入った。そのうちの一軒の暖簾を、木山君についてくぐった。店は木の香りがした。    彼が店主に話を聞き終えた頃、海鮮丼が出てきた。黒い器の中で、まぐろの赤身、中トロ、えび、たこなどが赤からピンク、白へのグラデーションを作り、シソやキュウリ、ワサビの緑と鮮やかな色彩のハーモニーを生み出している。見ただけで唾液が大量に湧いた。  木山君はバッグから一眼レフカメラを取り出し、多方向から海鮮丼を撮った。そして、おいしそう! のポーズと食べるポーズをよろしく! と二本の指を伸ばして微笑んだ。  わたしは、どんぶりの斜め上で手を広げ「おいしそう」と言った。それから、駅での木山君のエア飲食姿を思い出しつつ箸で中トロをつまみ、笑顔で口を大きく開けたのだった。  脂がじわんと溶けるような中トロと、さっぱりした赤身のまぐろはもちろん、えびがプリっとして甘く、新鮮だった。頭を取ってみそもすする。まったくえぐみのない、こくと深みのある味が口いっぱいに広がった。春キャベツの味噌汁や、甘辛くほろっとするまぐろの角煮も含め、あっという間に完食した。木山君も、すべての料理をぺろっと平らげていた。代金を渡そうとしたけれど、彼はどうしても受け取らないのだった。  
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加