第1章

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 『女優と不動産屋』                       タナカ ヒトミ  清水琴音(ことね)は、あるメールを待っていた。  京急・大森海岸駅前から、ちょっと品川方面へ入った細い道沿いにある小さな2階建ての家。  その1階にある「スマイル不動産」の店のスミで、ドキドキしながら待っていた。     なるべく平静をよそおって、自分の仕事をつづけているが心は落ち着かない。  手元もそわそわしているから、朝からずっとパソコンのマウスがスムーズに反応してくれない。  それでも、部屋の「ワンルーム」や「2DK」の「間取り図面」やら、お風呂やキッチンの「写真」やらを。  それに添える「キャプション」呼ばれる短文、たとえば「キッチンコンロはIHクッキングヒーターです」とか「東側の窓は出窓です」などの説明文を入力しては、こつこつとインターネット上の「賃貸サイト」にアップしていた。  そして、待っていた。  「こんな退屈な毎日を、32年間のぱっとしない人生を、ドラマチックに変えてくれる!」  …かもしれない。1通のメールを。  琴音はデスクトップパソコンのディスプレーの横に置いたスマホを、5秒ごとに1回は見ていた。  着信メロは仕事中は切っているので、新着メールの確認は、ひんぱんにスマホを見るしかなかった。  <見られている卵はゆだらない>  と言われるが、  <見られているスマホのLEDフラッシュは光らない」  琴音はしだいに不安になってきた。  「…ひょっとして、ダメだったのかな。あたしは、呼ばれなくて、オーディションはトモヨだけ来ればイイってことになったのかしら。トモヨのほうが色っぽいし、目立つし…」  と同じ劇団に所属する3つ年下の荒木トモヨの潤んだ黒い瞳とぽってりした唇、大きな胸を思い出し、弱気になった。   しかし、午後2時37分。  店の女社長、今年68歳になる権藤恵美子が、大好物の豆大福が入った近所の和菓子屋の包み紙を、ゴソゴソと開けはじめていた時、  「きょうのおやつはこれよ。3時には少し早いけど、お客さんも来ない今のうちに食べちゃいましょうよ」  と嬉しそうに笑いながら、ひと口めをガブリとほおばろうとした…。  まさにその時。  デスクの上のスマホは光った。  「あっ、ひ、光ってるよ!清水さん!」  琴音よりも先に叫んだのは、白髪の男性社員の松島幸太郎だった。
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