第1章

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 無謀にも27歳で退社して、現在、所属している劇団の研究生となった。入社以来交際していた社内同期の営業部の恋人からは「女ってのは男が考えつかないような大胆で無謀なことをする。僕はついていけない」と呆れられ別れられてしまったが…。  研究生から正式に劇団員になっても、給与だけで食べていかれるはずが無いから、アルバイトを続けている。  スーパーのレジやら、ウエイトレスやら派遣社員もやったが、芝居の稽古が日曜と水曜に入り、公演間近になると連日の稽古だから、どうしても周囲の人に迷惑をかけ、気がねしたり、クビになったりで勤めが長続きしなかった。  そんな折の3年前、偶然、部屋を探すために訪れた「スマイル不動産」で、パソコン操作に困っていた松島を助けたのがきっかけで、主に「賃貸サイト」入力のアルバイトをするようになった。  もともと広報だったので、「写真」や「文章」の作業は、フツウにこなすことができた。  「不動産屋」は水曜日が最初から定休日だから気をつかわなくてすむ。  (水曜に休むのは、「水」が「契約が水に流れる」を連想させて縁起が良くないから、という説が有力らしいが正確なところは、琴音もよく知らない)  土日は社長と松島だけで営業するので、琴音が出勤する必要は特になかったし、公演や地方巡業の時に連続して休暇を取っても、休みの前後に残業して集中的に入力すれば、文句を言われなかった。  アルバイトとしてはまことにありがたく、感謝しても感謝が尽きない職場だが、そろそろ本業の女優として、ひと花を咲かせたい、と願う、32歳、独身、現在彼氏ナシ、の清水琴音であった。  「よし、今度こそ、やってやるぞう…」  心の中で強くつぶやいた。  「…こんにちは…」  琴音がパソコンの前でこっそり意気込んでいた、その時、店のガラスサッシの引き戸を開けて、シルバー色の髪の美しくスマートな女性が入ってきた。  歳のころは70代前半か。チャコールグレーのツインニットに黒いパンツで、黒のナイロン製ポーチを斜め掛けしていた。服装は特にブランドとか豪華というわけではないが、背筋が伸びていること、髪が カットがゆき届いたショートヘアであることから、(ショートはマメに美容院に行かなくてはならず、保つのにお金がかかる)生活と心に余裕がある奥様、または自分で何かビジネスをしていた人、に琴音には見えた。
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