第1章

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 「この近くで、部屋を探しているんですが…」 大きくはないが、よく通る、心地よいメゾアルトの声 で、女性は切り出した。 松島が電話中のために、琴音が笑顔で対応した。 「息子さんか、娘さんのためのお部屋ですか?」 「いえ、私のための部屋です。私がひとりで住みます。古いアパートで良いんです…。お風呂がついてなくてもかまいません」  琴音は、奥の恵美子と顔を見合わせた。  高齢者の独り住まいは、一般に大家が嫌うので借りづらい。が、この女性は何か訳アリなのか、どうしたものだろうか、と。  恵美子は手慣れたもので、不動産屋として、高齢者に対するいくつかのルーティン質問をした。 「保証人はいますか?」「近くに親族はいますか?」 「お風呂が不要なのはなぜですか?」 そして最後に「ご予算はいくらぐらいですか?」 「保証人は今、同居している長男に頼みます。都内のIT関係の会社に勤めています。わたしどもの家は鶴見にあり、一応、持ち家です。お風呂が不要なのは、昼間に私が居る部屋が欲しいのです。夜はほとんど泊まらずに鶴見へ帰りますので、別荘、書斎のような部屋とお考え下さい。予算は6万ぐらいなら理想ですが、もう少しなら出せます」  女性の答えはすらすらと明快だった。  おそらくヨソの不動産屋で同じような質問をされたため答えの準備ができてたのか、もともと頭の回転が良い人なのだろう、と琴音は感心した。  恵美子は恵美子で、「おそらくこの高齢婦人は同居の嫁と嫁姑問題を抱えている、かわいそうな姑なのだろう」と勝手に判断し、「保証人がいるなら家賃を滞納しないだろうし、問題を起こすようなタイプでも無さそうだ」と好意的に考え、「大家が「高齢者でも相談可」と言ってくれているアパート」、や「築年が浅く、室内がきれいな割に、1階は不用心だからと入居者が決まらない1階の部屋」を頭の中で素早く思い出し、物件名を琴音に告げた。  「ほら、『ホワイトハイム』、あの1階はまだ空いてたでしょ?あそこなら、どうだろうね」  「はい。まだ空いてます」  「募集中」の物件を常に入力する仕事の琴音は、「空き」かどうかの情報は正確に把握していた。  店頭に貼ってあるB4サイズよりはひと回り小さめA4サイズの「募集間取り図面」を、琴音はパソコンから印刷して女性に見せた。
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