プロローグ

1/1
4815人が本棚に入れています
本棚に追加
/286ページ

プロローグ

   東京で好きになれたものは一つだけ。    それは夜明け前の空。 *   「ここにいたのね。探したわよ」  桐谷歩(きりやあゆむ)はアコースティックギターの弦をはじいていた指を止めた。  ため息まじりにかけられた声に振り返ると、マネージャーの槙田(まきた)が重い非常用扉に背中を預けて腕組みをしている。 「ったく。ケータイにかけても全然出ないし。四時に迎えに行くって言っておいたでしょ?」  歩はくわえていたピックを口からはずす。 「もうそんな時間? いま何時?」 「四時二十三分」  槙田がわざとらしく腕の時計を確認し、少しとげのある口調で時刻を告げる。  確かに、意識してみれば空はすっかり白んでいる。 「やべ、ごめん」  時計もスマートフォンも持たずに部屋を出てきているので、歩には時間を確認できるものは何もない。  もっとも、持っていたところでなんの役にも立たなかった。  夜と呼べる時間からこの定位置に腰を下ろして、視界にはずっと同じ景色があったはずなのに、迎えの時間はおろか、夜が明けたことにも気づいていなかったのだから。  ギターをつま弾きつつ、まだメロディーにもなりきらない音符を頭の五線に乗せては消し乗せては消しを繰り返しているうちに数時間が経っていたらしい。   本来、マンションの屋上およびそこへ繋がる非常用階段は安全面の理由から立ち入りができない決まりになっているが、歩は特別に許可を得て、屋上への出入りを許されている。  人目を気にすることなく、歩が自由に外の空気を吸えるのは今、この屋上だけかもしれない。 「部屋にいないから彼女を送っていったのかと思ったわ。やめてよね、朝は撮られやすいんだから」  モデルあがりで今は女優の肩書で売り出している喜多茉莉菜(きたまりな)が、昨夜、歩の部屋に来たことは槙田も承知の上だ。  茉莉菜とは彼女の初主演映画の主題歌を歩が手掛けたことが縁で、今はそれなりの付き合いをしている。  しかし、二人が特別な関係であることはごく一部の人間しか知らないし、知られてはいけないことだ。 「心配しなくても、彼女はあれからすぐ帰したよ」 「タクシー呼んだの? 大丈夫?」 「向こうのマネージャーが迎えに来た」  「あらそう。なら、心配いらないわね。ともかく早く支度して。みんな車で待ってるんだから」  歩は適当な返事をしながら、ゆっくりと立ち上がる。  長時間同じ姿勢でいたせいで腰が痛い。 「あんた、ちゃんと寝たの? 昨日も遅かったし、今朝もこの早さでロケだもの。デートもほどほどにして寝ないと身体がもたないわよ。夏バテも心配だし。ほかのメンバーもみんなお疲れの様子よ」 「ヘーキ。超元気」 「そう? だったらいいけど」  季節は真夏に近かったが、今、空気は驚くほどひんやりとして、日中のうだる暑さなど微塵も感じさせない。  眼前に広がる大都会は、昼間のけたたましくてせわしない人いきれや雑踏とまるで無縁だと言わんばかりにまだ眠りのなかにある。  空はみるみる明るくなっていくのに、いまだ陽の昇らない朝焼けの下では街は無色無音で、地上十五階に吹く風も今朝に限ってはひどくおとなしい。  塵も埃も喧騒も夜のうちに沈んで、アスファルトすれすれのところに沈殿しているようだ。  最低限の暑さ。  最低限の音。  最低限の色。  起きているのは、歩と、たとえば新聞配達の人と、二十四時間営業の店の店員と、あとほんの少し。   いちばん クリアな夜明け前   だから きみと僕をつなげないかな   この空のずっと向こう ずっと遠くにいるきみだけど   ビルも 山も 川も 信号も 自転車も越えて   まっすぐな線で 最短距離で   何もかもがクリアな夜明け前だから きみが近くに   何もかもがクリアな夜明け前だけは きみを近くに  その時、真横に近い角度から太陽が一筋ずつ昇り始めた。  光に差し込まれた建物がみるみる色着いていく。クリアな街にかかる光のグラデーションはまるで魔法が解けるさまのようだ。 「さっきの歌、いいじゃない」  アルペジオに合わせて口ずさんでいたハミングを聞かれていたらしい。  階段を下りはじめた槙田のヒールがむき出しの鉄にカンカンと鳴る。  メロディーも歌詞も本気で口ずさんでいたわけではない。  公に発表する機会はないでたらめなものだ。  紙の裏にたわむれで書きなぐる落書きのような、地上に降りる頃にはその調べをすっかり忘れてしまっているだろうくらいの、今この瞬間だけの、独り言のようなもの。  今までおとなしかった風が一瞬強く吹いて、髪がふわりと浮く。  歩は足をとめて、風だけが住人の殺風景な屋上に、小さくバイバイと言い残した。
/286ページ

最初のコメントを投稿しよう!