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おかげですっかり変わってしまった生活は、歩に立ち止まることさえ許してはくれず、ここ数年は目まぐるしい毎日をなんとかやり過ごすことだけで精一杯だった。
そんな日々には忘れているが、ふと我にかえって原点に立ち戻ってみたとき、今の状況に一番驚いているのは歩自身かもしれない。
あの日――、
それは忘れもしない年の瀬の、冬晴れの乾いた太陽がまぶしい日で、互いに口元はぐるぐると巻いたマフラーの中に隠れていた。
頬が赤かったのは、寒さのせいではない。田舎者だったからだ。
行き交う人の流れの邪魔になっていることなど完全にお構いなしで、二人並んで立ち止まり、見上げたそれは高いところにあるのに大きくて、歩は繋いでいた手をきつく握りしめた。
あのときの、震えんばかりの緊張だとか腹の底からわきあがる興奮だとかそういう逸る類の感情は、今は恥ずかしくて表に出すことなどないが、青くて若く、一方で当時のエネルギーをどこか恋しくも思っていると、ふいに前から声がした。
「抜けそうなの? スランプ」
助手席から、目だけで振り返ってくるのはベースの長須友樹だ。
さっきから全く会話に入ってこなかったのでてっきり眠っているのだと思っていたのだが、目を閉じていただけで話はちゃんと聞いていたらしい。
歩は肩をすくめ、ため息混じりの笑いを零す。
「まだ。全然ダメ」
車はスクランブル交差点をとっくに通り過ぎて、もう振り返っても見えないくらい、後ろだった。
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