三章 新時代

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1 《古代 蛭子2》 蛭子は、さ迷った。 あてもなく、行く場所もなく、野山を歩き続けた。 いっそ、死にたいと思った。 食を断ち、水を断ち、崖から飛びおりてもみた。 それでも、彼は死ねなかった。体がバラバラになった激痛のなかで、次の日が昇るまでのあいだ、苦しんだだけだ。 朝になると、蛭子の体は癒えていた。 死ぬことさえ許されないのだと悟り、彼は、すすり泣いた。 (なにゆえ、われは呪われしか。草も木も獣も、生あるものは、みな、いずれ死すものを。われ一人、この世の輪から外れた) だから、嫌われるのだ。 われは人の姿するも、人ならざる者。 姿みにくき蛭子なれば、実の親にも、うとまれし者なり。 彼は、ただ食い、ただ飲み、獣のように生きた。 さまよううちに、他国の領土に入りこんだ。剣をもつ男たちに捕まった。胸を一突きで殺された。が、まもなく息をふきかえした。 蛭子の神秘を見て、男たちは、さわいだ。男たちの長のもとに、つれていかれた。 「鴉歌(アカ)さま。われらが猛き長。この者、まこと、ふしぎ千万。長に、たてまつらん」 それはヤマトのある豪族の長だった。若く、野心に燃え、かつ好奇心旺盛。目の前で串刺しにされながら、蘇生する蛭子に、多大な興味を持った。 「げに驚嘆すべき者よ。なんじ、物の怪か?」 「わは蛭子。死すこと許されざる者。まことの親に捨てられ、よるべなき身なり」 「なれば、われに仕えてみよ。われのために、その不死の命、ささげてみよ」 「好きに召されよ。もはや、われに心なし」 蛭子は鴉歌に仕えることになった。 初めは、おもしろがって、兵士たちのヤリの的にされていた。 あるとき、あまりにも汚いというので、川に落とされた。あがってきた蛭子を見て、鴉歌は、ぼうぜんとした。 「蛭子……なんじ、麗しき者なり」 麗しい? そんなバカなことがあるものか。 鴉歌は、また、わを弄ぶ所存。わを喜ばせてのち、足蹴にするつもりにあろう。信ずるまい。 なにやら、鴉歌は山ほど美辞麗句をならびたてていた。しかし、心を閉ざした蛭子の耳には届かない。 なにしろ、身分いやしい蛭子は、自分の顔を見たことがない。 とはいえ、それから境遇は変わった。 蛭子はきれいな服を与えられた。ぜいたくな食事。あたたかい寝床を。 つねに鴉歌のかたわらに置かれた。 狩りや遠乗り。市の見まわり。宴。 蛭子には初めての経験ばかりだ。
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