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「でもけいちゃんは年上だし先生だし…敬老の精神、じゃなかった、えっと年功序列的な? だから呼び捨てはちょっと…」
「意味わかんないんだけど、敬老って俺いくつだよ」
「や、や、だって無理」
さっきも思ったけど呼び名を変えるって、めちゃくちゃハードル高い。けいちゃんはあたしの中でけいちゃんなのに。
「言わないんだったら、ここでちゅーするよ?」
あたしの左脇にけいちゃんはドンと手をついた。こ、これって壁ドンてやつ? そしてさっき唇に掛けたままの手で、あたしの顎をくいっと持ち上げる。
逃げられない状況にゴクンと唾を飲み込む。だって、死角にはなってるけど、いつ誰が来るかわからないのに。
「やっ、やめてけーし…くんっ。ごめんなさい」
けいちゃんの腕に手を掛けて、必死に制止しながら、あたしはやっとそれだけ言った。唇にかかってた手を、今度は自分の口元に持ってって、けいちゃんはくすくす笑う。
「けーしくん、って…それが限界なんだ。ごめんごめん、千帆。そんな泣きそうな顔しないで。俺、千帆にけいちゃんて呼ばれるの、気に入ってるし」
「…か、からかったの?」
怒ってなかったのがわかってホッとしたのと、からかわれたのがわかって悔しいのと、半々の気持ち。
「イラッとは来たけど、酒井の彼女を演じる千帆の台詞だと思って、応援は流すことにした。寧ろ、あの歓声の中で千帆の声聞き分けたあいつにムカついた」
「……」
「俺も、うかうかしてらんないな、って」
あたしの耳の横についてた手をけいちゃんはポケットに収めて、そのまま視線を上向かせる。けいちゃんとあたしの頭上に広がってるのは夏の夕空。雲ひとつないブルーの空に、少しだけオレンジ色が混じり始めてる。
まだまだ暗くなるには時間があるのに。どうして急き立てられるような、切ないような気持ちになっちゃうんだろ。空の色が変わるみたいに、あたしの気持ちは変わったりしないのに。
「…けいちゃん?」
「夏休み、どっか行こうか」
けいちゃんの提案に、あたしのここまでの憂いが吹っ飛んだ。いつもけいちゃんちで隠れるように会ってばっかりだったから、ふたりで出かけるなんて、けいちゃんが先生になってからは初めて。
「何処? 何処連れてってくれるの?」
「何処でもいいよ。――誰も、俺達のこと知らないところだったら」
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