新社長

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後ろからその様子を見ていた、千博より一年先輩の木戸康範(きどやすのり)が言う。 「誰なんだろうって話してはいたんだけど、取引先か何かかと思ってたよ。すぐ帰らずに名乗っていきゃよかったのになぁ」 「ですよねえ」 先週金曜日、総務部八名とシステム部二十名ほどで会場を借りて送別会をおこなった。見送ったのはこのYCシステム株式会社の、前の社長である。 「ま、せいぜいゴマでもすって頑張れ」 木戸の無責任な励ましを受け、荷物をまとめた千博は肩を落とし廊下へ出た。 他の人はまだいい。千博はたぶん他の社員と違って、新社長への印象が悪すぎる。 というのも、あの夜、千博は先輩たちに強要されて余興をやった。 他の女子社員と共に歌を歌うだけの演し物だったが、なぜか女子の制服を着せられ、ご丁寧に下着や靴まで提供してもらっての完全な女装だった。 気がすすまなかったが、不況の折に採用してくれた社長への恩を返すべきと言われれば断ることもできなかった。 「遅かったな。さっさと仕事しろ」 社長室に戻ると一翔の叱責が待っていた。風当たりがきついのは、あの時のこととは関係ないはずだ。そう信じたい。 パソコンを立ち上げながら二メートルほど向こうの男をチラ見する。 あれは、女装してどうのこうのというのは、千博がやりたくてやったのではないと知っているだろうか。きっと知らないだろう。 練習もせずに臨んだ本番の歌はひどいものだったし、前社長以外の観客からは「かわいい」だの何だのと激しくからかわれた。 OL姿で歌を終えた千博は一刻も早く着替えがしたかったのだが、近くのトイレは別の団体の会合にも使われていて、どこか他の場所が必要になった。そこで目をつけたのが、配膳係などが出入り口に立てる目隠し壁の陰だった。 もう配膳は終わっていて人の出入りがなく、着替えるだけの十分なスペースもあった。
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