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上になった千博は立ち上がりかけて、また仰向けに転んだ。
「見えてるぞ」
「えっ!」
気付けば、一翔に向かって両脚を大きく開いてしまっていた。パンツは自前ながら、黒のストッキングとガーターベルトは丸見えだ。
「ま、今夜は無礼講だというし。ほら、立てる?」
先に立ち上がった一翔の差し出した手は大きく、引き上げられて身長も十センチ近く高かったのが分かった。
「すみません……」
どなたかは知らないが失礼な事をした。二十九の男のブラジャーやガーターベルト姿など、気持ち悪くて後で思い出したくないだろう。
一翔は曖昧な笑みを浮かべ「早く着替えて」とだけ言った。
まさかあの時の男が、新しく来る社長だとは思いもしなかったのだ。年齢も三十四と若く、爽やかで男らしい美形の彼が。
名乗られて初めて、最初から失敗していたのだと思い知った。
出勤前までは、新たな仕事に熱意を燃やしていたというのに。
「データの移行はうまくいった?」
秘書の気持ちがどん底まで落ち込んだのも知らず、一翔が尋ねる。
「できているようです」
千博のデスクの前にワゴンがあり、過去の経理資料が山と積まれていた。これから資料と入力済のデータの突き合わせ作業だ。
総務部でただの経理係だった千博に突然秘書になるよう辞令が下りたのは、新社長が来る数日前のことだった。
自分のいる会社が別の会社に譲渡されたと聞いたのが一ヶ月前。
秘書の仕事について書かれた本を渡された時は「会社の体制が変わってマナーなどを改めて身につける機会に」と説明があった。
まさか自分だけが秘書の勉強をしていたとは気づかずにいたのだ。
そもそもこんな中小企業に社長秘書の必要はないはずで、ならば千博はいずれまた元の仕事に戻るのだと最初は思っていた。だが復帰の時期も何もかも説明がなかったのを考えると、最悪のシナリオが浮上してくる。
「リストラ」だ。
千博はいわば計画的に総務部から弾き出された。新社長による新しい体制は総務部のあり方も変えるだろう。実際、経理システムは本社――買収したカワシマ電気工業株式会社が主導する新しいものに変わるというではないか。
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