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ぬくもりが、温かい手が欲しかった。
ずっとずっと欲しかった。
僕は玄関に立ち尽くしていた。
待って、と、呼びかけようとした声はぐるぐると絡まり、喉を詰まらせた。結局、気持ちだけがそこを通り抜けて、声にならない掠れた吐息となった。
ゆっくりと、恐る恐る伸ばした手は躊躇うことなく振り払われ、鈍い金属音と共に、扉が閉められた。
とても、重い重い音だった。
ごめんね、と、小さな呟きが聞こえた気がしたけど、今となっては気のせいだったように思う。
彼女は、一度も振り返らなかった。
その突然の出来事に僕はどうする事も出来なくて、その場に座り込み、ただ呆然と、その黒くて重い、巨大な扉を見つめていた。
それから、待って待って、ずっと待った。
夕刻の西日が部屋を染め上げ、遠くで遊んだ帰りであろう子供達の笑い声が響いていたけれど、僕はそこから、動けなかった。
夜が来て、隣からテレビの音と微かな笑い声が、遠くから犬の遠吠えが聞こえてきたけれど、月明かりの届かない玄関の暗闇から、僕は動けなかった。
眠れないまま朝が来て、1日が過ぎても、僕はずっと、扉から離れられなかった。
次の日の夕方、扉を開けて飛び込んできたのは、知らないおばさんだった。
逆光で顔はよく見えなかったけれど、橙色の光が柔らかく彼女を包んでいた。
その少しふくよかなおばさんは、僕を見つけるなりしゃがみ込み、かわいそうに、もう大丈夫だからね、とだけ呟いて、その光の中で、いつまでも僕を抱きしめていた。
お菓子のような、お花のような、甘い香りのするその体は、何故かとてもとても、温かかった。
結局、僕を捨てた彼女が戻る事はなかったけれど、その時の柔らかなぬくもりを、僕は今でも、忘れる事が出来ないでいる。
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