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豊は唇を真一文字に結んでこちらを真っ直ぐ見据えている。俺は苦笑した。どんなに真剣な顔で訴えられたところで、こんな作り話を鵜呑みにできる訳がない。いくら俺が新しい物好きで常に話題性に飢えているとはいえ、どんな話でも食いつくと思われるのは大迷惑なのだ。やっぱりこれは悪質な商売に違いない。
「妙な話に引きずり込まれないうちにとっとと帰るわ」
俺が踵を返してはねつけると、
「これだけは理解して下さい」
と、背中越しに豊の声が響いた。
「渡井さんが今日ここに来たのは偶然ではなく、必然だったのです。あなたにとって何か意味があるからこそ、ここに来たのです」
俺は一切振り返らずにドアの外に出た。
佳純と暮らしていた1LDKのマンションに戻ってきた。
鍵を開けて厚ぼったいドアを押した途端、俺は舌打ちした。家を出る時にうっかり電気を消してしまったらしく、室内は真っ暗だったのだ。電気の点いていない、誰もいない部屋に帰ってくるのを俺は死ぬほど嫌っている。
部屋を明るくした途端、水玉の傘やピンクのスリッパといった女ものの数々が否応なく視界に飛び込んでくる。元々は佳純が一人暮らししていたところへ俺が転がりこむ形で始まった同棲生活だったのだ。大病院でナースをしている彼女は、そこの敷地内にある寮の空き部屋で今は仮住まいしている。
「しばらく距離を置きたいと思っているの、篤人と」
リビングで寝そべってテレビを見ながら藪から棒に佳純はこう告げた。いつも行儀の悪い女だった。
「私の名前でここ借りてるんだから、早く別の部屋を見つけてね」
突然のことに俺は戸惑いながらも首を縦にふった。大喧嘩したわけではなく、どちらかの浮気が発覚したのでもなかったけれど、少しだけ形の合わない靴を履いて歩くような、言葉にし難い感覚を互いに秘めて生活していたのは、確かだった。
「あのさ……」
俺はあることを尋ねようとしたが、確かめるのが怖くてそのまま口ごもってしまった。
佳純が部屋を出てから一切何の連絡もないまま、一週間が過ぎようとしていた。彼女の残り香がほのかに漂う部屋で俺はパソコンに向かい、定期的に更新しているブログの内容に頭を悩ませていた。
佳純と一緒に生活していた頃はよかった。彼女との何気ない会話やちょっとしたいざこざ、ハプニングを少しだけ面白おかしく脚色すると、それなりに面白い文章が書けた
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