第1章

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 サーモンのマリネとグラスビールの間に、チェスの駒でも差すようにゴディバのチョコレートが置かれる。 「0時半だ」  ベージュのトレンチコートを着て、卵のようにツルリとしたTBが口を裂くように笑みを浮かべている。  左手を上げたときに裏地が見えたが、たぶんバーバリーじゃなくてアクアスキュータムだな、と僕は思う。  TBは用心深く周りを見渡し、大きすぎる身体を竦めるようにして、夜更けのスタンドバーを出て行った。    僕は、ゴディバのトリュフを紙ナプキンで包んでポケットにしまう。  ワンルームマンションに帰り、チョコレートを眺める。  0時半の十分前。  頭の中は冴えわたっていてまったく眠くないけれど、僕の仕事は夢の中にある。  だから、僕は、眠らなくてはならない。  ゴディバのトリュフの中には、睡眠薬を溶かしたジェル状のウィスキーが仕込んである。  いつもよりも苦めだな、と思ったときにはすでに眠りに落ちていた。  どこの駅だか分からないメトロのホーム。  目の前を、オリエントエクスプレスのような車両が流れていく。  たぶん、何かのテレビ番組が脳内に残像として残っていたのだろう。  睡眠時非乖離性症候群。  僕は、夢の中でこれは夢なんだと自覚してしまう症状を持っている。  毎日そうなのだ。  自分が見たい夢を見れるわけではなく、明晰夢というのとは少し違うらしい。  精神科のドクターに言わせると、立派な障害なのだそうだ。 「あまり続くようなら、早死にするから気をつけるんだね」  脳が休めないからな。どこか嬉しそうな顔をして、ドクターは言った。  「待たせたな」トレンチを着込んだTBがメトロのホームに音もなく現れる。  珍しく、煙草をくわえていた。 「スタイルだ。オレは嫌煙家だよ」  TBが煙草を指差す。 「次の仕事は、明日だ。いや、日付を跨いだから正確には今日だな」 「どこに行くの?」  TBは地図を出して、丸の内の一画を指差した。ビルの地下にあるルノワールが待ち合わせ場所だ。  TBは僕の知らない企業名と、十四日の十三時半に底値、十七日の十四時に高値、と言った。  今回は株のインサイダー取引のようだ。芸能人や政治家のゴシップよりは幾分ましなような気がする。 「お前はこの仕事が好きなのか?」TBが煙草に火をつける。僕が曖昧に頷くと、TBは口を裂くように笑みを浮かべた。
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