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じっと私を見ている。それがゆっくりと近づいてくる…つまり、包丁が近づいてくる。
このままでは、私は自分で自分を刺すことになる。そう思ったらたまらない恐怖が込み上げ、私は左手で力いっぱい右手を抑えた。
いやだ。いやだ。
心の中で何度も繰り返す。でも包丁は手から離れない。どんどん私に迫ってくる。
もう、刃先が目の前まで近づいた。逃げられない。
その絶望感が膝を揺らし、私はその場にへたり込んだ。…それが幸いした。
訪中にぶら下がる形になった私の頭上を、切っ先が真っ直ぐに進んだ。
突然床に尻もちをついた私を追い切れず、包丁だけが元々私が立っていた位置へ進んだのだ。
流し台に包丁が当たると同時に右手が開いた。
幸いにも、流しにぶつかって弾け飛んだ包丁は、崩れた私を避ける位置に転がった。
床に危険な刃が転がってる。でも拾う気になれない。拾ったら多分、今度こそあれは私を差し貫くだろうから。
今の現象は何だったのだろう。包丁の中に浮き上がったあの目は誰のものなのだろう。
小さな頃から私に料理をさせなかった母親は、もし私が包丁を握ったら、こうなることを予想していたのだろうか。
両親が帰ったら一部始終を話し、ちきんと質問をぶつけてみよう。
でもそれまでは…。
ゆっくりと身を起こし、私は、包丁から逃げるように台所を離れた。
その時に思ったこと。
多分もう、どんな理由があったとしても、一生料理をすることはない。
包丁…完
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