第一章

19/29
79人が本棚に入れています
本棚に追加
/29ページ
 涼子だ、と笹木も長谷川も分った。  笹木は長谷川を顧みないまま、失礼しますと言って応接間から駆け出して行った。普段は鼻っ柱の強い彼女の慌てように、さすがに長谷川も気が気でない。悲鳴は続き、何かが叩きつけられて割れた音が不穏な響きで木霊する。長谷川は、怪我人が出なければいいがと案じる内に、男の自分が駆けつけた方が良いのではと考えた。  扉を開けた時、前方から家政婦に手を引かれた小さな男の子が泣きながらやって来たのに出くわして、長谷川はその場に立ち止まった。軽井沢で鷹志に会うのは、二度目だ。とは言え、鷹志の方は目を手で塞いでいて、長谷川には気づいていない。 「大丈夫ですよ、鷹志さん、大丈夫ですよ」  家政婦の宥めるのも、きっと耳に入っていない鷹志は左腕を両目にきつく押しあてている。多分、何も見たくないのだろう、いや、見てしまったことを忘れたいのだろうと長谷川は推し量りながら、そのたどたどしい歩みを見つめた。 「長谷川さま、どうぞ、お部屋の方にお戻りくださいまし」  すれ違う時、郁代がすまなそうに顔を曇らせて言った。そして、はっと気付いたように顔を上げて、無言のまま体の前に鷹志を引き寄せた。彼女の目が言わんとしている事は、長谷川にも察する事はできる。だが、それだけだ。長谷川は、あえて同情の表情を作らず、首を横に振った。  その反応を、ある程度想定していたのだろう。郁代は特段に落胆した様子を見せず、鷹志の背中を優しく押して奥へと消えて行った。  廊下の反対側からは、まだ涼子の混乱が収まっていない物音がする。笹木の声が甘い哀願の響きで、狂おしく雄叫びを上げる涼子を宥めている様子が手に取るように察せられる。長谷川はやるせない思いを断ち切るように、応接間の扉を閉めた。  「さぁ、鷹志さん。少し、休みましょう、ね?」  項垂れた鷹志をベッドの淵に座らせると、鷹志の冷たい手が郁代のエプロンを掴んだ。見上げてくる茶色い瞳は涙で溢れている。 「ごめんなさい。大野さんのケーキ、ぐちゃぐちゃになちゃった……」 「そんな事、いいんですよ。鷹志さん、怪我はないですか?」  うん、と頷いた鷹志はそのまま頭を上げないで、込み上げる嗚咽に懸命に耐えている。小さな胸をきりきりと痛める悲しさは十分に察せられる。しかし、それに蓋をして郁代を気遣うのだ。郁代はたまらなくなって、鷹志を抱き締めた。
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!