第一章

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 「これが?」と、鷹志の言葉を怪訝そうに反復した高岡に、「ううん、なんでもない」と誤魔化して鷹志は、白い大輪に顔を寄せた。花の香りは、ふわりと甘く鼻先を撫でたけれど、鼻腔には清々しく漂った。その芳香に、興津の穏やかな笑顔が重なる気がする。 「ほんのりとした、いい匂いでしょ?」と、自慢げな高岡の言葉に、鷹志は素直に頷いた。 「昔の人も、この匂いを嗅いだんだね。なんか凄いな」  子供なりの誉め言葉に微笑ましさを覚えた高岡は、とんとんと痛む腰を叩いて立ち上がった。   「坊ちゃん、いい時においでになった。もうこれで牡丹は終いですよ」 「え? まだいっぱいに咲いてるのに?」  鷹志が、先ほど歩いてきた花群れを指さすと、高岡はにっこりと笑う。 「あれはね、芍薬ですよ」 「しゃくやく? 牡丹じゃないの?」 「みんな芍薬ですよ、ここは。だから、牡丹はこれ一本だけ。牡丹園はあっち」  高岡が指示したのは、隣の、やはり同じ竹垣で囲まれた花壇だった。青々と葉が茂った低木が並んでいるが、花はない。 「どうして、この牡丹だけがここにあるの?」 「昔っから、ここなんですよ。他の牡丹より花が少し遅いから、芍薬と一緒に置いてるんでしょ」  世良田邸の牡丹は、一月から冬牡丹が咲きだして、ゴールデンウィークまで様々な種類が次々と咲き誇るのだと言った高岡が優しく目を細めた。牡丹は、今、花後の剪定中だと言ってから、高岡は視線を目下の芍薬に戻す。 「芍薬も、あと十日ですかねぇ。今が一番きれいですよ」 鷹志は、芍薬の花芯に鼻を埋めてみた。牡丹より甘い香りが喉まで通る。 「凄く、いい匂い」 「だから、芍薬は香水にも良く使われるんですよ。もっと長く咲いてくれればいいのに」  地面に落ちた花びらを拾って高岡は、ふぅーっと花の盛りを惜しむように溜息をついた。その視線と同じ所を眺めながら、鷹志が小首を傾げる。 「牡丹と芍薬って同じに見えるけど……」  それはね、と高岡は鷹志の気を引いて、牡丹の根元に近い葉を掻き分けて見せた。 「牡丹は木、なんです。芍薬は秋には葉っぱが枯れちゃうけど、また来年生えてくる草の花なんですよ」
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