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* 1988年 5月 *
冬の長い軽井沢にも春の日差しが届く五月。
街路樹のハナミズキが生まれたての緑に彩られた町に、大きなランドセルを背負った新入児童が帰り道を辿っている。急ぐこともない帰り道。町の住民が時折声を掛け、児童らが応える声も生き生きと弾んでいる。
そんな賑やかさの中で花屋の前で立ち止まった鷹志に、クラスメイトの佳奈が訊いた。
「たかしくん。お花、かうの?」
ううん、と頭を振った鷹志は、店先にあふれている鉢植えの花を覗き込んだまま言った。
「おかあさん、ありがとうって、ぜんぶのお花にかいてあるよ」
「ははの日に、あげるから」
あたりまえでしょう、と澄まして答えた佳奈が、隣に座り込んで赤い花の香りを嗅ぐ。鷹志は、佳奈の方に小首を傾げて訊いた。
「このお花は、ママにあげるものなの? かなちゃんも、あげるの?」
「そうよ。あした、パパといっしょにあげるの」
そうなんだ、と鷹志が神妙にカーネーションを見つめている。たかしくん、しらないの?、と無邪気に訊いた佳奈の声も聞こえないらしい。
そんな鷹志を眺めながら、佳奈は昨日の授業で鷹志がしでかした「おかしな」行動を思い出した。
『お母さんの顔を描いてあげましょうね、笑った顔がいいわね』と先生に言われたのに、クレヨンさえ持たずにいた鷹志の画用紙には、とうとう母親の顔は描かれなかった。
『鷹志くん、どうしたの?』と困った先生が何度聞いても、ずっと唇を噛んでいた。
『先生、悲しいな。鷹志くんとお話ししたいよ。お願いだから教えて』と、困った先生が泣きまねまでしたら、やっと鷹志は目を伏せたまま答えたのだった。
『ママは笑わないから』
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