ー新しい古傷ー

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「―ここで、何かご用ですか……?」  自殺志願者かも知れない、と思わしき老人の項垂れた背中へ、僕は意を決して誰何した。  ―数日前からだった。この市街で一つの観光名所とされる、風光明媚な橋の中腹。そこで煤けた欄干へ寄り添う様に、一日中ただ茫洋と立ち尽くす人間の存在に気付いたのは……。  心此処に有らずと言った風情で、変化の無い水面をじっと眺め続けている恰幅の良い初老の紳士。彼のその背中は何処か言い知れない哀愁を帯びていて、足元からは亡霊を想わせる様な長い影が舗装に伸び色濃く落ちていた。  そして漸く我に返った老紳士の振り向き様、橋元から吹き上げられた強風に僕達の髪や衣服は柳の如くそよがされる。彼はシルク帽が中空へ舞ってしまわない様にと、反射的に力強く頭を抑え付けようとさえしている程だった。  そう、僕達が踏み締めているこの橋は上昇風に煽られる様な高度で何百mと在る……。水面を覗き込めば、その深度に誰もが眩暈さえ感じ身体を竦ませてしまうだろう。もしも欄干を跨ぎ越えようとすれば、その後の惨劇は誰かが語る迄もない事だった。  そんな欄干の手前で佇んでいる彼を連日に亘り見掛けていた事で、僕には或る薄暗い想像が心に留まり続けていたのだ。 (彼は、この底知れない川へ飛び降りてしまうつもりではないだろうか……?)  それは恰も、咽喉に突き刺さり、いつ迄も取り切れない魚の小骨の様な疑念……。周囲一帯の治安管理が職務である僕としては、延々と看過出来る光景では無かったのだ。 「この場所で何かご用ですか……?」  彼は背後から見知らぬ人間に恐々と話し掛けられた事で、少々面喰った様子を隠し切れないらしい。しかし彼は僕が羽織っているスタッフ仕様の制服を見遣ると、直ぐ様こちらの意図を察知した様に確りと向き直った。  彼は草臥れた老犬を思わせる様な、力無い、憔悴した微笑を湛えて僕に応える。 「―お気遣い、申し訳ない。……しかしバーチャル空間でも、飛び降りたりすれば現実世界の本人迄が死ぬのかね?」  彼は生死に纏わる重大な疑問を、料理のトッピングを隣人へ尋ねる様な気安い調子で問い掛けながら、夕陽を鈍く照り返す堅固な造りの欄干を撫で擦った……。
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