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男1
「早く」
せっぱつまった、女の声。
「すぐ、来て」
言葉が喉につかえたようになって、うまく話すことができずにいる。
だが、その電話の声が誰のものであるかは明らかに分かる。
もとめに応じて、女のもとに向かう。
合鍵でマンションの錠を開け、廊下を歩いて、部屋のノブを押す。
扉のすぐ近くに女はいる。
床にへたりこんで、肩から毛布をかぶって、ふるえている。
毛布のほか、その体には何もまとっていない。
ふるえたまま何も言い出そうとしない女を放って、ベッドに目をやる。
男が横たわっている。
男は……やはり何も体にまとうことなく全裸で、枕に顔をつっぷしている。
その顔のあたりからあふれたのであろう、どす黒い液体が、シーツの大半に染み出し、男はベッドで溺れているように見えた。
そんな映像が、目の裏にへばりついたまま、剥がれない。
いったい、いつ目撃したものか分からない。
とにかく、そうして横たわる男の体と、ふるえる女の肩。そんなものだけが生々しく網膜に息づいている。
その映像に、時がない。
その映像の「前」に何があり、その映像の「後」に何があったのか、それが私には分からない。
いつごろからであろう?
私が自分の記憶に「時」というものをなくしてから、すでに久しく経つ気がする。
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