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「おはよう天野さん」
聞きなれない声に、美咲はびくっと肩を震わせた。
笑顔でのぞきこんでいるこの男――
ああ、昨日のお医者さん。
ええと……高坂先生。
白衣、着てる……。
「あれから眠れましたか?」
「はい、おかげさまで」
いつもより体が軽い。
それでもやはり寝起きは関節が強張っている。
横向きで寝ていたから下になった右腕は力が入らず、支えにして立とうとすると、ガクッと力が抜けて体勢が崩れた。
「体、痛いですね?」
雪洋が支えてくれる。
白衣を着た雪洋に、美咲は素直に身を委ねた。
――不思議なことだと思う。白衣を着ていようが着ていまいが、中身は同じ高坂雪洋だというのに。
「毎晩あれでは寝不足でしょう。精神的にも肉体的にも参ってしまうのは当たり前ですね」
「お陰様で、昨夜は久しぶりにぐっすり眠れました」
いつも起き上がるまでかなり時間がかかるのに、今朝は幾分体が軽い。笑顔も自然にこぼれる。
「あ、そうだ先生。一つお願いが……」
「何でしょう」
「髪、結ってくれませんか」
男の人にこんなお願いをするのは気が引けるが、肩が痛くて腕が上がらないこと、故に髪を結わうだけじゃなくブラッシングさえ難儀することを説明する。
いいですよ、と雪洋は快く応じてくれた。
「切りたいんですけど、美容院で長時間座り続けると膝が痛くて」
美咲の長い髪を結いながら、「切ってあげましょうか」と雪洋が軽く申し出た。
「先生できるんですか?」
「やったことはありませんけど、手先は器用ですから大丈夫でしょう」
自分で器用って言いますか、と苦笑したが、きっちりと一つにまとめてくれた髪を鏡越しに見て、たしかに手先は器用だな、と感心する。
「白衣は夜中だけで大丈夫ですか?」
「あー、……はい。わざわざすみません。ありがとうございます」
本当は一日中白衣でいてほしいが、そこまでわがままは言えない。
「医院で着るのはスクラブ白衣ですし、こっちは昔ので今は使っていませんから、夜中の訪問着にしましょうね」
雪洋は白衣を脱ぎ、「さ、朝ごはんにしましょう」と車椅子を寄せた。
隣の部屋へ移動する。
すっきりと片付いたリビングダイニングキッチン。雪洋に支えられながら、食卓用のイスに乗り移る。
「朝ごはんの前に、これ飲んでてください」
目の前に湯飲みが置かれた。
「何ですかこれ」
「白湯です。起き抜けに一杯、ゆっくり飲んでください。胃腸が整いますから」
言われた通りに白湯を飲み始める。
一口飲むごとに腹の中があたたかくなるのを感じ、それが何とも心地よい。
キッチンから卵を焼く音と匂いが漂ってくる。
思えばこうやって誰かに朝食を作ってもらうなんて、長い間なかった。
テーブルに向かい合って座る。
昨夜の晩ごはんもそうだったが、雪洋の料理の腕は実に素晴らしい。今朝はとろとろふわふわのオムレツの出来栄えに目を丸くした。
「美味しそう……」
「美味しいですよ」
しれっと言ってくれるが、食べてみるとなるほど自分で言うだけのことはある。
「先生彼女いないでしょ」
「特定の女性はいませんけど」
「ふふ、やっぱり」
「イメージですか?」
「イメージです」
これだけできると逆に女性から嫌がられそうだなと、妙な確信があった。
独り身のイメージだと決めつけた時の仕返しとばかりに、勝ち誇った顔で美咲は言ってやった。
朝食後、雪洋からステロイドという薬が渡された。本当はあまり使いたくないんですが、と言われて昨日から飲み始めている。
色々と説明はされた。
ステロイドというのは免疫力を抑制するので、感染症に注意しなければならない。
それに一度服用を開始したら、患者が勝手に中止してはいけない。医師の判断で徐々に量を減らしてゆく。
飲む量と個人差にもよるが、副作用もある。
でも飲まないわけにはいかない。
こんな飲み薬で治るなら楽なものだ。
些細な疑問でも、雪洋は一つ一つ懇切丁寧に答えてくれた。ステロイドを飲むとどうなるのか。飲まないとどうなるのか。副作用はどのようなものがあるのか。
それを説明した上で、さらに副作用防止のための薬――骨粗鬆症予防の薬と、胃腸薬も二種類処方された。つまり骨と胃腸にも負担がかかるということ。
「こんなに何種類も……。ま、自業自得ですよね。何年も病院行かなかったんだし」
雪洋を見ると、眉根を寄せ、目を細めて美咲を見つめていた。それが何を思っての表情かは、美咲にはわからなかった。
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