同居入院、開始

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「今日は少し散歩してみましょうか。まだ歩きまわられては困るので、車で行きましょう」 翌早朝、雪洋とともに向かったのは、家の裏手にある小高い丘だった。車がかろうじて通れる程度の遊歩道があり、突き当たりにはこじんまりとした木製のベンチがある。 空気は澄み、朝日が木々の葉の一枚一枚を輝かせている。 何よりそこから見える景色が素晴らしかった。 見下ろす街並みは小さく、遠くの山々まで見え、空が大きい。 「裏にこんなすてきな場所があったんですね」 「気に入りましたか?」 「はい!」 神々しい朝日は、無条件で「新しいスタート」を想像させた。 「太陽に見守られているみたい。気が漲ってくる……」 「気持ちが枯れているときに無理やり『前向きに』『ポジティブに』と言われても苦しいものです。まずは溜まっている悪い気を出して、きれいな空気の中に身をおいて、少しずつ栄養を取っていくことが大事だと思いますよ」 「何だか植物みたいですね」 「昔、祖父に教えられました。あるべき姿に整えれば、自分らしい美しさで輝けると。子供の頃、私の顔はひどい皮膚異常に襲われたんですが――」 「え、全然想像できない」 雪洋の今の顔は、憎らしいほどきれいな肌をしている。 「でも祖父のもとで暮らしているうちに、きれいに治りました。ストレス源から離れ、自然の空気を吸い込み、自然の物を食べ、自然の中で伸び伸びと育てられました。祖父が私をあるべき姿に整えてくれたんです」 「それだけで? 薬も使わず? なんかすごく……」 「簡単だと思いますか?」 美咲は雪洋にうなずいた。 「その簡単なことが、現代の大人にはなかなかできないことなんじゃないですか?」 美咲に向けられた雪洋の微笑んだ目が、あなたもそうでしょう?と言っているようだ。 「美咲」 「は、はいっ?」 突然下の名前で呼ばれて背筋が伸びる。 「いい名前じゃないですか。今は苦しい時ですけど、じっくり充電すれば気が漲ってくるはずです。そしたらきっと、その名前のとおり、美しく咲くことができるはずです」 両親は、「心から美しく咲き誇るように」という願いを込めて、「美咲」と名付けてくれた。 でもこの何年かは、すっかり枯れ果てている。 「先生の下の名前は、たしかユキヒロさんですよね。『雪』に太平洋の『洋』……」 ネームプレートを見て覚えた名前を、指で宙に書く。 「はい、雪洋ゆきひろです。生まれた時、雪が世の中のものを全て埋め尽くして、真っ白な大海原のようだったと、母がいたく感動したようで。この景色のように、乱れを真っ白にして鎮められるような、冷静で無垢な人間になってほしいという意味だそうです」 「素敵ですね……」 「いや、よっぽど家庭環境が悪かったんじゃないですか?」 しれっとして言う雪洋に、美咲の顔が引きつる。 「でもお母さんの望み通りになったんじゃないですか? 先生いつも涼しい顔してますし」 「どうですかね。でもあなたの体については、真っ白にしたいと思っていますよ」 「ぜひお願いします」 二人で笑いあう。 笑ってはいるが、美咲にとっては切なる願いだ。 「――朝日っていいですね。こんな風に眺めることって、久しくなかったかも」 「今とってもいい顔をしてますよ。穏やかで、いい笑顔です」 ここからの朝日を毎日見ていたら、雪洋のような穏やかさを持てるだろうか。 「いつも心にこの朝日を宿していなさい。いつでも思い出せるように」 「はい、先生」 美咲は朝日に目を細め、胸に手を当てて微笑んだ。この朝日の明るさと、あたたかさと、今の気持ちを、心に刻み込むために。 「じゃあ戻りましょうか、美咲」 「え? あ、はい」 「ほら行きますよ、美咲」 「は、はいっ」 どうやらこれからは、下の名前で呼ばれるらしい。
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