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もうやめた
市内にある高坂総合病院。
皮膚科診察室。
「天野美咲さんですね」
白衣姿の若い医者が所見を述べる。
「検査の結果は――」
うつむいて次の言葉を待つ。
膝に乗せた、節々が不格好に腫れている手指をにらみながら。
「特に異常無しですね」
「――え?」
医者の言葉に思わず顔を上げる。
目が合ってしまったので、また自分の両手へ視線を落とす。
「異常……無し……」
医者の言葉を力なく復唱する。
この病院で何回目か。
異常無し――
ならばこれは、なんなのだ。
両手の指は、ペンダコのようにコブができ、シモヤケのように色も悪い。会社で「その指どうしたの?」と聞かれるたびに、返答に困っていた。
説明のしようがない。
なぜなら医者たちが口をそろえて「異常無し」と言うのだから。
そしてこの足。
まだ二十二歳だというのに、老人のように関節が痛い。立つのもしゃがむのも激痛を伴い、日常生活が辛いものへと変わってしまった。
「膠原病こうげんびょうでもリウマチでもないようです。血行をよくするお薬出しますね。それでしばらく様子を見ましょう」
そんな薬はもうとっくに別の病院で出された。
言われた通りきちんと服用も塗布もした。
ずっと様子を見ていて異常と思ったから来たというのに――
医者の目を直視することができず、胸元のネームプレートに向かって心の中で反論する。
そのネームプレートに、違和感があった。
何だろうこの感覚は、と思ったが、それはすぐに心の片隅に追いやられた。
今は「異常無し」と言われたことへの絶望感や虚無感の方がはるかに勝る。
顔は勝手に、愛想笑いを作っていた。
「わかりました」
なんだこれは。嫌になる。
なんの笑いだ。あきらめか落胆か。
「他の病院でも同じこと言われましたし。異常がないとわかっただけでも安心しました。ありがとうございました」
よくもまあペラペラとそんなセリフが出るものだと、我ながら感心する。
そんなこと、一つも思っていないくせに。
もうやめよう。
もうやめよう、こんなこと。
どこの病院でも、どの医者でも言うことは皆同じ、「異常無し」。異常が無いと言われたら、もうここへは来られない。
じゃあどうしたらいい。
いつかは治るのか?
それともずっとこのままなのか?
もうやめた――
胸の内を充満させたその想いは、聞こえるか聞こえないかの振動となって、無意識に口から出ていた。顔の筋肉も愛想笑いをやめてしまった。
医者がこちらを見ているが、何を言うでもないのでバッグを持って立ち上がる。
――帰ろう。
「天野さん」
返事をする気力もない。
「経過を診ますので二週間後にまた来てください。もしもその前に何かありましたら、すぐ来てくださいね」
何かありましたら?
今のこれは何かあった状態ではないというのか。
「はい」
何の感情も期待もこもらない声。
すぐに背中を向ける。
もう用はない。
「必ず来てくださいね」
「……失礼します」
先生とも、二度とお会いすることはないでしょう。
もう、やめた――
天野美咲、二十二歳。
二十歳を越えたあたりから現れた体の異常は、いくつもの病院を受診するも回復の兆しを一向に見せない。
希望を失った美咲は、これを最後に以後五年間、病院へ行くことをやめた。
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