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――人の気配にまぶたを開けると、雪洋の姿があった。薄暗い部屋でベッドのそばに立ち、美咲の足に異常がないか確認している。
「あれ? 先生? 夜? お帰りなさい。……すみません」
くすっと笑って「寝てていいですよ」と雪洋は言ったが、起きることにした。
「私、ずっと寝てたんですね」
近くの薬局で薬を受け取り、帰宅後、倒れこむようにベッドへ直行したことまでは覚えている。
「先生、何でヒカルさんに患者だって言わなかったんですか?」
唐突な質問に一瞬の間が空く。
「言った方がいいですか?」
「だってイトコならイトコで口裏を合わせておかないと、色々面倒じゃないですか?」
「ヒカルさんは大丈夫ですよ。粋がわかる人ですから、嘘だとわかっていてもそれを口に出す人ではありません。含みを持たせながらもイトコで通してくれます」
ヒカルの中では、美咲は雪洋の彼女にでもなっているのだろう。
「嘘だってばれているんだったら、最初っから患者だって言えばいいんじゃないですか?」
「言わぬが花。何もかも正直に言う必要はないんですよ」
「……わからないです。なんのために嘘をつくんですか?」
美咲は小器用なタイプではない。
人を欺くことが苦手だ。
だったら最初から何もかも手の内を見せていた方が楽だと思っている。
「入院できる病院ではないのだから、患者だと言ったところで変な目で見られますよ」
「それは……そうですけど」
いまひとつ腑に落ちない。
この先いろんな人間に会うたび、イトコだと通せばいいのだろうか。正直に言っていた方が、万が一トラブルがあってもこじれ方が軽く済むのではないか。どう立ち回ればいいのか、その指針がわからない。
美咲の不安げな表情を読み取ったのだろう。
雪洋が説明を始める。
「患者ですと言ってしまえば、たしかに間違いはないですよ。でもね、そうするとそのあと長い説明が必要になってきます。どういう病気なのか、どうして他の病院には行かないのか――」
雪洋の言いたいことが、わかった気がした。
「患者だと言うたびに質問攻めにあい、そのたびに説明をして、そのたびに――美咲が傷つくことになるかも知れない」
雪洋の想いが、美咲の中にスーッと染み渡る。
「先生は、私のために嘘をついてくれたんですね?」
雪洋は美咲が考えていることよりも、遥か先のことまで見通している。
「嘘というよりは、本当のことを言わないだけ、という方が抵抗がないですか?」
そうかも知れない。
まったくの嘘をつこうとすると、変に緊張してしまう。
「本当のことを言わなくてもね、察してくれる人はいますよ」
「そうでしょうか」
言ったってわからないのに、言わないでわかるなんてあるものか。
「『歩き方おかしいけど、どうしたの?』と聞かれたら、美咲、なんて答えますか?」
「え……っと……」
膝が痛くて、足の裏も腫れて痛くて、庇ってたら歩き方に変な癖ができて……。
「『一』質問しただけなのに『十』返ってきたら、相手には重すぎますよ」
考えていることを見透かされている。
「じゃあなんて答えたらいいですか?」
「『うん、ちょっとね』――これだけです」
にっこり笑う雪洋に美咲は目をしばたく。
それは答えになっているのか?
「それだけで? わかるわけないじゃないですか」
「わかる人はわかります。『人には言えないけど、何か大変なんだな』ということがね。そういう人は要所要所で気を利かせてくれますよ。さり気なく『あっちにイスあるよ』と教えてくれたり」
「でも、『ちょっとね』だけじゃ……」
どう大変なのか、どうしてほしいのか、本当のところがわかるわけないじゃないか。
「ここでの『わかる』というのはね、美咲が抱える症状の一つ一つのことではありません。漠然と、何かが大変なんだなということを『察する』ことなんですよ」
「察する……ですか」
「わかる」は細かいところへの理解というイメージだが、「察する」というのは……包み込んで大局を知る感じだろうか。
「そして美咲は『この人はさりげなく思いやってくれる人なんだな』ということがわかるはずです。そういう人を、これからは大切にしていきなさいね」
今までは一から十まで全て語っていた。
それは察してくれる人どころか、同情だけする人間――いや、同情の言葉だけを引き寄せていた気がする。
察してくれる人はきっと、言葉ではなく、心を寄せてくれる。
「もしも美咲が求めるものと少しずれていたとしても、その優しさを嬉しく思うはずです。美咲も優しさの受け取り方に、少し余裕ができると思いますよ」
余裕……。思えば今までの自分は、余裕もなければ融通も利かなかった。
「……痛い痛い言うの、もうやめようかな」
自分の状況をわかってほしくて訴えたつもりが、周りは重荷に感じていたのかも知れない。
「でも先生、『うん、ちょっとね』でわかってくれない人の場合は?」
「そういう人はね、根掘り葉掘り聞いてくるわりに、実際は美咲の身になってくれないものです。辛さを想像できないし、気遣いもできない。そういう人とは表面上の付き合いだけに留めなさい。美咲が辛いだけです」
「それは……わかる気がします」
別れた彼が、そういう人間だったから。
「何もかも正直に言う必要はない……か。わかりました。先生が私を守ってくれたということも、わかりました」
誰か一人でも、味方がいるというのは嬉しい。
「ま、ヒカルさんの場合は私が年頃の女性といるだけで楽しいんですよ」
「……それもわかる気がします」
親戚のオバチャンのような気持ちなのだろう。
「ところで。美咲の足、今はどういう状態ですか?」
「……だるいです」
言いつけを守らない美咲を叱るでもなく、雪洋は笑みを浮かべている。
「先生、なんで笑ってんですか?」
「笑ってますか?」
「笑ってますよ。それ見たことかって呆れているんでしょう?」
ふふ、と雪洋が笑みを漏らした。
「呆れてはいませんよ。美咲は今、いい経験をしているなと思っていたんです。勉強になったでしょう? 自分の体力の上限がどのへんかという」
「……大変勉強になりました。先生の言いつけを守らず、すみませんでした」
渋々反省の言葉を述べる。
相変わらず雪洋はにこやかに笑っている。
「足の状態、もっと具体的に感じてごらんなさい。体と対話するように、意識を向けて。どうですか?」
「……ふくらはぎがジンジンします。足の裏も熱を持っているような感じです」
「その状態を覚えておくんです。兆しが出てきたらすぐ気付けるように。調子がいいときでも、時々体の隅々まで意識を巡らせて」
「はい……」
せっかく体からサインが出ていても、主が気付かないのでは意味がない。
「それと不調なときはもちろん、好調なときもはしゃぎすぎないことです。心穏やかに、平常心ですよ」
「それ、お釈迦様じゃないと無理ですよ」
お釈迦様のように微笑んでいる雪洋にぼやいて、美咲はため息をついた。
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