雪洋の予言

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雪洋の予言

自宅療養が明けて職場復帰すると、美咲はまた元の仕事三昧へと戻ってしまった。どうせ一ヶ月で戻るからと、職場の者は美咲の仕事に、大して手を出していなかったのだ。 「お帰りなさい」 雪洋が玄関で出迎える。 「ただいま帰りました……」 足が痛くて靴が脱げない。 「肩につかまっていなさい」 ふらつく美咲の足元に雪洋がしゃがむ。 足の裏の腫れに触れないよう、そっと靴を脱がせてくれた。 「近頃ますます帰りが遅くなりましたね。せっかく一度は回復したのに」 立ち上がった雪洋に、すみませんと謝る。 美咲の目に悔し涙が溜まった。 嗚咽が漏れる。 本当に私、何やってんだろう。 声を出さずに肩をふるわせると、涙がパタパタと床に落ちた。 胸の奥で、何かが黒く渦巻き始める。 「責めているわけではありませんよ。いつもご苦労様」 こういうとき、雪洋は決して美咲を責めない。 泣いている子供をあやす母親のように、そっと慈しむような声で慰める。そのぬくもりにひどく癒され、独りじゃないんだ、ここに寄り添ってくれる人がいるんだと安心させてくれる。 ――このぬくもりに心から浸ることができたら、どんなに楽で、どんなに心地よいだろう。 「仕事、辞めたっていいんですよ」 だが美咲は「辞めていい」という言葉にいつも頑なだ。一度だってうなずくことはない。辞めたくても辞められないから、言われるたび辛くなる。 「――着替えてきます」 葛藤か苛つきか。 心が乱れる。暴走する。 何に? 雪洋の優しさに? どうして―― 部屋に行こうとすると、雪洋がアシストしようとする。 「一人で大丈夫です!」 なぜこんな険のある声で拒むのか。 自分が嫌になる。 胸の奥が、黒いものにどんどん支配されてゆく。 機嫌の悪さに雪洋も気付いたはずだ。 それでも呆れたり怒ったりして、美咲を突き放すことは決してない。美咲の細波など、雪洋の大きな器には丸ごと納まってしまう。 「これに乗りなさい」 廊下の隅に畳んで置いていた車椅子。 雪洋の声音はいつもと変わらず、穏やかだ。 「これなら私の姿が見えないからいいでしょう? 白衣を着ていないとあなたは嫌がりますからね」 「そんなことは……っ」 「いいから乗りなさい」 渋々車椅子に座る。 胸の奥で黒く渦巻いたものも一緒に乗せて。   「あとは大丈夫ですから」 部屋に着くなり雪洋を拒む。 「白衣を着ていないと極端に嫌がりますよね。男性恐怖症ですか?」 「違いますよ。理由は……前にも言ったじゃないですか」 こんな姿、医者にしか見せられない。 男の人には見られたくない。 ――それが理由だ。 雪洋は黙って美咲を見つめていたが、もうそれ以上は立ち入ってこなかった。 「明日も遅くなるんですか?」 「はい、部署のみんなと飲み会があるので」 「仕事のあとにですか? 夜遅くでは体が辛いでしょう」 「……大丈夫です」 自分の声の低さに驚く。 体調が悪いからか? 気持ちがすさんでいるからか? いや、その両方か。 「また『大丈夫』が口癖になりましたね」 「本当に大丈夫ですってば!」 言い方がきつい。 自分でもわかっている。 感情が暴れ出すのを抑えることができない。 また元に戻ってしまうのか。 「もう出席の返事したし、お世話になった方の送別会だから出ないわけにもいかないし。一次会ですぐ帰りますから」 「でも体調が悪いなら断ったって――」 「だから! 終わったらすぐ帰るって言ってるじゃないですか!」 ――もう嫌だ。 「飲み会が好きなんじゃない! そういうことじゃない! みんなは普通に参加してるのに、私だけこの体のせいで『普通に』参加することができない! 体を気にしながら参加する二十七歳がどこにいます? ただ『普通に』過ごしたいだけなんです私は!」 言葉が、止まらない―― 「先生もうあっちに行ってください! 着替えをしますから!」 「だめです」 「出てってください!」 「今出ていったら、美咲はきっと、物に当たります」 病名がわかった日の夜、雪洋が言った言葉が脳裏に浮かぶ。 「――私に当たりなさいと、言ったでしょう?」 こんな時でも、雪洋の声は落ち着いていた。 今の美咲には、それがあまりにも辛く、胸が痛い。 怒気が揺らいだ隙をついて、雪洋がふんわりと美咲を包み込んだ。痛くないようにと、そっと抱きすくめる。 白衣を着ていない雪洋にそんなことをされて、嫌だとは思わなかった。 ただ、あったかい――そう思った。 「先生……私……っ」 頑なだった気持ちと一緒に、体が崩れ落ちそうになる。震える手で、雪洋へすがりつく。 「もう嫌……っ」 何が嫌? この体? それとも仕事? 違う。 私自身が、一番嫌。 雪洋が背中をさすり、ポンポンと優しく叩いた。 その手のあたたかさが、背中から胸の中へ伝わり、黒く渦巻いていたものを散らしてゆく。 「――今までできたことができなくなって、美咲は悔しい思いをたくさんしたでしょうし、これからもするでしょう。でもね、悔しくて泣いてうずくまるだけじゃ、何も変わりません。これからはどんどん工夫していくんです」 「……工夫?」 「予防を心がけ、違和感があったらすぐに対処する。卑屈になるためじゃなく、美咲が快適に過ごすために」 「でも私は、普通に生きたい。だってそれが普通なのに……っ」 ついこの前までは異常だと認めてほしかったのに。今度は普通でありたいと願う。 自分でもどうしたいのかわからなくなる。 わからないから、癇癪(かんしゃく)を起こす。 雪洋の考え方はもちろんわかる。 それでもやはり、 「先生、ごめんなさい……。私まだ……この体を受け入れられない」 納得するには時間がかかる。 こんな自分は、惨めにしか思えない。 「焦らなくていいんですよ。美咲はよくやっています。もう少し、楽をしたっていいんですよ」 自分の体は受け入れられないのに、雪洋の言葉とぬくもりは、じんわりと美咲に染み渡っていった。
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