雪洋の予言

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着替えを終えて、二人で食卓を囲む。 泣いた後だから味がわからない。 「先生、どうしたら先生のようになれますか?」 唐突に美咲は問いかけた。 あんなふうに癇癪(かんしゃく)を起こしても、結局何もいいことはない。自己嫌悪だけが残る。そんなのは、もう疲れた。 「私も先生みたいに、穏やかに笑って、見守っている側の人間になりたいです。先生みたいに『特技・平常心』って履歴書に書きたいです」 「そんなこと書いたことありませんよ」 雪洋が声を上げて笑う。 笑いがやむと、雪洋は美咲を見つめて嬉しそうに目を細めた。 「な、なんですか?」 「ん?」 「先生なんで笑ってんですか?」 「笑ってますか?」 「笑ってます! 私が失敗したとき先生はいっつも笑ってます!」 雪洋の微笑みは、子供の成長を見守る母親のようだ。 「……先生って、どうして怒らないんですか?」 「おや質問が増えましたね。まあ根本的なところは一緒でしょうけど」 一ヶ月以上一緒にいるが、怒った顔を見たことがない。 「どうして怒らないか、ですか。そうですね……」 雪洋が考えながら、食べかけのおかずを箸で口へ運ぶ。茶碗に残ったごはんも食べ、味噌汁を飲み干す。――なかなか答えを言ってくれない。 完食した雪洋は箸を置き、「ごちそうさまでした」と合掌している。よもや質問されたことを忘れたわけではあるまい。 美咲が辛抱強く待っていると、ようやく思いついたように雪洋がうなずいた。 「疲れるからじゃないですか?」 「……じゃないですかって、他人事ですね」 「言われてみれば、しばらく怒ったことがなかったなと思って」 これは本物だ。美咲は目をみはった。 「エネルギー使うでしょ? 怒るのって」 「……たしかに」 さっき実感したばかりだ。 「それに怒れば上手くいくかと言えば、そうでもない。往々にして上手く回らないものです。だから事後の処理にもエネルギーを使う。謝ったり、謝る機会を与えたり」 許さない、という選択肢はないのだなあと感心する。改めて雪洋を大人だと思い、その器の大きさを感じる。 「そういうことが面倒だから、怒るのをやめたのかも知れませんね。最初から穏やかに進めた方が、結果うまくいきますし」 ふと、童話の『北風と太陽』を思い出した。 雪洋は今まで何度も、美咲の心の壁をあたたかく溶かしてくれた。 先生は、太陽だな―― 「怒らないようにするのは簡単ですよ。嫌なことがあっても平常心でいることです」 「簡単じゃないですよ」 「怒らずにいれば、言い過ぎたと謝ってくるのは相手です。こちらに非があった場合でも引っ込みがつかないほどの状況にはなりません。謝ることも抵抗なくできます。あとで面倒な思いをするのは意地を張った方です。こちらは忘れるくらいの気持ちでいればよろしい」 すでに無理だとあきらめ顔の美咲に、雪洋が「いいですか」と人差し指を立てる。 「何を言われても、何があっても大丈夫。無力化できるかどうかは、受け取り方次第なんですよ」 「うーん、理屈はわかるんだけど……」 「あと体のことでいら立ちを覚えるのなら、コントロールの仕方を覚えることです。たとえ不調になっても回復までの道筋が見えていれば、気持ちもそう乱れないでしょう」 「そっか……。私も心が乱れないように修行します。白い道を歩んでいきたいから」 ふと気がつくと、雪洋がまた嬉しそうに笑みを浮かべて見ていた。 「……何ですか?」 いいえ、と言う雪洋の顔は笑ったままだ 「さ、食事も済んだことですし、ソファーへ移動しましょう。足、辛いでしょう?」 少しの時間でも足を高くしておこうと雪洋がソファーのフットレストを出し、美咲の足の下にクッションを敷いてくれる。 「一つ予言をしておきましょうか」 ソファーテーブルにお茶を置きながら、雪洋が言った。 「美咲はね、今にとても素晴らしい女性になりますよ」 「え? 私が? なんでですか?」 「思慮深く、丁寧な立ち居振る舞いをするようになるからです」 「……なんでそうなるって思えるんですか?」 自信に満ちた声でそんな風に断言されると、悪い気はしないが、少し照れくさい。 雪洋はゆったりとした動作で、美咲の隣へ腰を下ろした。 「持病が暴れないような行動を取っていくと、自ずとそうなるからです。体調が悪くなるのはどういう時ですか?」 「えっ? えーと、疲れたり、足に負荷がかかったり、冷え、過度なストレス……」 自分の症状に関連する原因を、思いつく限り列挙する。 「ああ、いいですね。よく自分のことがわかっている。じゃあ症状をコントロールする方法も、わかりますよね?」 「逆をやればいいってことですか?」 にっこり笑って「そうです」と雪洋はうなずいた。 「無理が利かないから、優先順位を決めて物事を合理的に進めるようになる。衝撃や傷を嫌うから、動作が丁寧になる。朝晩の気温の変化や睡眠に気を使えば、規則正しい生活になる。自ずと精神面も安定する。人間関係でも、互いに傷つかない言葉を選ぶようになるでしょう」 美咲の目が輝き始めた。 「何より苦痛の経験があるから、美咲は人の痛みが誰よりもわかります。たとえ敵がいても、慈愛で相手を満たせば、いつの間にか味方になっているかも知れません」 気付けば美咲は、姿勢を正して聞いていた。 あまりにも輝かしい自分の未来像に、感嘆の吐息を漏らす。病と付き合ってゆくことに楽しみが見えてくる。 「……なれるかな」 「なれますよ。美咲は白い道をめざしたいと言ってくれました。そのための努力をしていけば、今話した未来像は、美咲に与えられる当然の結果です」 とんでもない。今の状態からそんな高みへ行けるなら、それはむしろご褒美だ。 「ああそれと。手足が弱い分、力仕事にも向かない。だから上手に人に頼む所作も身につけるでしょう。今までより男性にかわいがられるかも知れませんね」 その言葉で美咲の顔は急に曇った。雪洋も気付いて、不思議そうに見ている。
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