提案

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アスファルトに足を引きずる乾いた音が響く。夏の日差しが反射して、足元からも攻撃してくる。 「暑い……。暑いし痛い……」 ぴったりめのTシャツがやせた体のラインをなぞる。 この暑さの中、紫斑を隠すためにカーゴパンツを足首まで下ろしてはいている。 以前住んでいた場所は職場までやたら遠かったこともあり、二年ほど前に今のアパートへ引っ越してきた。平日は仕事に追われ、休日は体の痛みでダウンしているから、近所に何があるのかまったく把握していない。 瀬名に教えられた通り、本当に目と鼻の先にこうさか医院はあった。 だが今の美咲には千里の果てより遠い。 足を引きずり、息を切らせて、美咲はようやく目的地へ到着した。 「こうさか医院」と白文字で表記された、ガラス製のドアに手をかける。 昨日行った病院は『高坂総合病院』という。 同じ系列なのだろうかと思いながらも、痛みでそれ以上考える余裕はない。 ――ドアが重い。 足が踏ん張れないから余計に重い。 かろうじて開いたわずかな隙間から中へ入る。 玄関に来院者の靴がない。 待合室にも受付にも、人の姿は皆無。 あまり流行ってないのだろうか。 「こんにちは……」 痛みと疲労で、声が弱々しい。 スリッパに足を入れる。 壁や棚にしがみつきながら、めざす受付カウンターへ視線を投げる。 ――遠い。 いや近いのだが、その数歩が果てしなく遠い。 呼吸を整え、せえの、と心の中で唱えて一歩足を踏み出す。 ――声にならない悲鳴。 ギリギリと歯を食いしばる。 歩いている間ももちろん痛いのだが、一旦立ち止まってからの一歩というのは本当に痛い。 血が下がり、腫れぼったい足の裏がズクンズクンと脈打つ。スリッパすら鉛のように重く感じる。バッグの重みも足へのしかかる。 待ち時間の暇つぶしに持ってきた、読みかけのハードカバーの本。 持ってこなければよかった。 足を引きずって数歩進む。 玄関左手に長椅子、右手には畳敷きのスペースがあった。おもちゃがある。普段は子供がここで待つのだろう。 美咲は導かれるように、右手の畳敷きスペースへ進んだ。下は収納スペースらしく、畳は膝ほどの高さにあった。 膝が痛くてしゃがみ込むことができない美咲には、高さがある方がありがたい。畳の上へ倒れこみ、痛みが引くまで堪える。 拳を握りしめて歯を食いしばっているうちに、やがて痛みの波は小さくなっていった。 受付に保険証を出しておけばよかったかな。 誰か気付いてくれるかな。 何かもう、どうでもいいや……。 痛みが引いてくると、今度は睡魔が襲ってきた。 痛みのせいで毎晩まともな睡眠を得ていない。 静かな住宅街に聞こえる、セミの声や子供の声に意識が溶け出す。握り拳も緩み、まぶたがゆっくりと閉じていった。 畳の縁に投げ出していたバッグが、ゆっくりと傾いていく。中に入っている本の重みで、バッグは床へ向かって落ちた。 ゴトリ、と床に低く響く音で、診察室から姿を現した者がいた。だが美咲は気付かず、意識は深く沈んでいった。   「……さん、天野さん」 はっと目を覚ます。 ――痛い。 足ではなく、畳に当たっていた右側の肩や骨盤、その周囲の筋肉が痛い。固いところで寝るといつもこうだ。 今呼ばれた? どこだっけここ――ああ、病院だ。 うめきながら下になっていた右腕で体を起こすが、途中で肩に力が入らず、体が崩れた。 「大丈夫ですか?」 若い男が心配そうな顔で支える。 紺色でVネックの半袖、下は真っ白なパンツ。 随分と身軽で爽やかな格好をしている。 事務員か研修医かな、などと思いながら美咲は慌てて体を起こした。 「すみません、私、眠ってしまって……」 立ち上がろうとするが、「い……っ」と短い悲鳴を漏らすだけで、自力で立つことができない。足も、腕も、体のすべてに激痛が走って立つことを拒む。 「ああ、そのままで。天野美咲さん――ですね?」 すでに余裕がない美咲は、目をかたくつむってうなずくだけで精一杯だった。 「今、車椅子を持って来ますね」 「あの、大丈夫……ですから……」 声を絞り出す美咲を男は制止した。 「無理しないで。でもあと十秒だけ頑張ってくださいね」 十秒? 十秒だけなら何とか頑張れるかな。 でも車椅子なんてそんな大袈裟な……。 などと考えているうちに男が車椅子を持ってきた。 慣れた手つきで美咲を車椅子に座らせる。 そっと美咲の足を持ち上げると、左右に跳ね上げていたフットレストを戻して、足を乗せた。 「では行きましょうか」 男は美咲のバッグを持って車椅子を静かに走らせ、診察室へと向かった。
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