提案

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「じゃあ改めまして、こんにちは」 席に着いた男が笑顔で挨拶をするので、美咲も青ざめた顔で、こんにちは、と返す。 「遅れてすみません……」 早めに出てきたつもりだが、それでもこの足では二時に間に合わなかった。 「大丈夫ですよ」と笑みをたたえている男に紹介状を渡す。 その手が我ながらあまりにも醜い。 節々が不格好に腫れた手を見られたくなくて、すぐに引っ込める。 もう気持ちが折れそうだ。 「高坂総合病院の瀬名先生からお話は聞いてます。紫斑ということですが……」 男は紹介状を一読すると、美咲へ視線を向けた。 「体、痛かったでしょう。よくここまで一人で来られましたね」 慈しむような声で言われたことに驚き、顔を上げる。目が合ってしまい、咄嗟にそらして、またうつむく。 不覚にも、たったそれだけの言葉で目頭が熱くなった。 男がずっと見つめていることに気付き、美咲は軽く手を挙げて、大丈夫です、と言った。 この期に及んで恐縮している美咲を見て、男は少し悲しげな顔をした。 「天野さんは頑張っちゃう性格ですか? 『大丈夫です』って言う人ほど、無理してるものですよ」 男性ではあるが、その柔和な表情から聖母や菩薩といった類の癒しを感じる。 ふと、男の胸元にあるネームプレートが目に入った。「高坂雪洋」とある。 タカサカ……いや違う。これは―― 美咲はこの医院の名前を思い出していた。 「コウサカ、ユキヒロと言います」 美咲がネームプレートを凝視していたので、男の方から名乗ってくれた。 そう、「コウサカ」だ。 この医院の名前が「こうさか医院」なのだから。 「こうさか医院」のコウサカさん。 ということは、この人が院長か。 あれ? なんだろうこの感じ。 一瞬、美咲の記憶に何かが引っかかった。 違和感か既視感か。 しかし今は痛みで記憶をたどる気力もない。 まあいい。とにかくこの人はここの院長なのだ。 院長……この若さで。 美咲は改めて高坂雪洋(こうさかゆきひろ)と名乗る男の顔に目を向けた。顔立ちは中性的で整っている。物腰が柔らかく、落ち着いた雰囲気を覚えた。 年は美咲よりいくつか上だろうが、それにしてもこの目元の涼しげな青年が院長だとは、にわかに信じがたい。 高坂総合病院の瀬名は昔ながらの白衣を着ていた。年齢も四十代前半くらいだろう。年相応のシワもあり、瀬名の方が院長と言われればすんなり納得できた。 「血が下がると痛いですよね。横になりましょうか」 よほど青ざめた顔をしていたのか、高坂雪洋が診察台を手で示した。 美咲が一人で立ち上がろうとするので、雪洋も慌てて立ち上がる。「大丈夫です」と言ったものの、車椅子から立ち上がると全身の血が足をめざして一気に駆け下り、大きく脈打ち始めた。 歯を食いしばって診察台へ倒れこむと、不覚にもしばらく動くことができない。 「大丈夫じゃないですね」 「……すみません」 雪洋が首を振る。 「天野さん。医者の前で無理する必要はありません。素直に痛がる姿を見せていいんですよ」 真面目な顔つきで言ってから、雪洋はふんわりと微笑んだ。 「まずは『大丈夫です』という口癖を直すことから始めましょうか。本当は全然大丈夫じゃないんでしょう?」 美咲の目頭が、熱くなった。 なぜか―― 図星を指されたことが嬉しかったからだ。 凝り固まった心を包み込んでくれる人が、初めて現れた気がした。 今まで周囲の人間からかけられた言葉は、そろいもそろって「大丈夫?」ばかり。――そう聞かれたら、大丈夫だと答えるしかなかった。 「全然、大丈夫じゃないです……」 雪洋が優しく、うん、とうなずいた。 「足だけじゃなく、体中が痛いです! 痛くてもう我慢できませんっ」 口癖の原因はもう一つある。 美咲の記憶が、感情が、五年前へと戻った。 「大丈夫じゃなかったけど、どうせ、どうせ病院へ行ったって……!」 声が揺れた。 感情の波が押し寄せてくる。 五年前のあの日の感情が。 「医者はいつも『異常無し』としか言わなかった。そんな風に言われたら私、大丈夫って言うしかなくて……!」 熱い涙が耳へ流れ落ちてゆくのを隠すように、美咲は両手で目元を覆った。 「もう、我慢しなくていいんですよ」 頭に触れるあたたかい手の感触。 医者とはこんなに優しいものだったろうか。 戸惑いながらも、美咲の心を取り囲んでいた幾重もの壁が一つ、あたたかく溶かされてゆく感じがした。 「すみません取り乱しました。異常無しって言われたのは何年も前の別件なんです。最近は自分でも時々感情を抑えられなくて……。大人気ないですよね」 いいえ、と雪洋は首を振ってくれるが、この感情の起伏が以前より激しくなっていることは美咲も自覚していた。 「では足を見せてくださいね。裾、まくりますよ」 雪洋がゆっくりと美咲のカーゴパンツの裾を捲り上げる。 見られたくない―― その願いも虚しく、ふくらはぎには毎日目にしている真っ赤な紫斑がびっしりと現れた。突起して水泡になっているものもある。 「本当に気持ち悪い足で……すみません」 「大丈夫、そんなに気に病まないで」 目をそらしたくなるほどの紫斑。 同僚の心底怯えた悲鳴が耳について離れない。 別れた彼に身震いされたことが、脳裏に焼きついて消えてくれない。 雪洋が美咲の足をしばし検分する。 「天野さんは、今日一日お休みですか?」 「はい、土日は会社が休みですので」 「それはよかった。ではじっくりお話できますね。紫斑も体の痛みも、それにこの指も。これはちょっと、異常ですからね」 異常ですからね―― 雪洋の言葉が美咲の中を駆け巡った。 異常だと言ってくれる医者が、ようやく現れた。 今までどれほどの病院を回っただろうか。 こんなにおかしな現象が起こっているのに、誰一人医者たちは異常だと言ってくれなかった。 でもようやくここに、異常だと言ってくれる人が現れた。 「はい……よろしくお願いします」 美咲の視界が涙で潤む。 ――ああ、ようやく出会えた。 きっとこの人が、私を助けてくれる。
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