117人が本棚に入れています
本棚に追加
「体の痛みはいつからですか?」
「五、六年前から……」
「この紫斑は?」
「一年くらい前から時々。今は、毎日……」
診察台で仰向けになったまま、美咲は答えた。
「病院へは?」
「先月、個人病院から出された薬で一ヶ月様子をみましたけど、何も変わりません」
「先月? 一年前と、五、六年前は?」
「……五年前までは行ってましたけど、それ以降、病院へは行ってません」
あからさまに美咲の声のトーンが落ちた。
雪洋から目をそらす。美咲の口元は笑っていたが、目はひどく陰鬱だった。
何で私がこんな目に。
失望、憎しみ、狂気に似た怒りがとぐろを巻いて、美咲の拳を振るわせる。
雪洋は目を細めてその様子を見つめていた。
「どうして病院へ行かなかったんですか?」
その言葉に目尻がぴくっと痙攣する。
「どうせ『異常無し』とか『原因不明』って言われておしまいですから。今回は同僚に行けとしつこく言われたから来たまでで。そうでなければ――」
――そうでなければ、誰が病院なんか行くものか。
あちこちおかしいのはいつものことだし、仕事も忙しかった。医者に診せたところで、何かが変わるとは思えなかった。
唇を噛んでいると、外の路地から友達を呼ぶ少女の明るい笑い声が聞こえた。
声につられて窓の方へ顔を向ける。
横になっているから声の主は見えないが、空が見えた。
吸い込まれそうな真っ青な空に、少女の声。
部活を終えて帰宅途中だろうか。
声を上げながら弾むように路地を駆け抜ける。
少女たちの声が、足音とともに遠くなっていった。
走れなくなってから、もう何年経つだろう。
足は早い方だった。
なのにいつからか、まともに歩くことさえできなくなった。
気がつけば二十七歳。
女性として輝くはずだった時は、泣きながら痛みに屈する日々でしかない。
窓の四角い空を見つめ続ける。
もうそこに、元気な少女はいないのに――
弱い風が木々をかすかに揺らす。
鳥が甲高く鳴いて、木の陰から飛び立った。
その音で美咲の意識が急に現実に引き戻され、慌てて雪洋へ向き直る。
「すみません、お話の途中だったのにボーっとして……」
何の話をしていたのだったか……。
随分と長い間、ぼんやりしていた気がする。
雪洋を見ると、さして怒った様子もない。
穏やかに見守っていた。
「所々傷もありますね。膝とくるぶしと肘と……。随分こじれている。というより潰瘍ですねこれは。これだけでも相当痛いでしょう」
「体重がかかるところ、ぶつけやすいところはすぐコブになったり傷になったりします。すんなり治ったためしがありません」
「そうですか……。今度は手を見せてください」
美咲の手を取り、じっくりと検分する。
シモヤケのように所々赤くなり、ペンダコのようにぼこぼことコブがある指。
「さわられて痛くないですか?」
「痛くないです。でも物にぶつけた時は、軽くでもすごく痛いです。あと指先が腫れることもあります」
かすかにうなるような声を漏らして、雪洋がうなずいた。
「天野さん、他には?」
「え?」
「他に何か気になるところありませんか? おかしいと思う症状、全部言ってください」
美咲は目を見開いた。
すぐに質問に答えることができない。
おかしいと思う症状なんて数え切れないほどある。それなのに今までどの医者も興味を持ってくれなかった。誰一人、そんな言葉はかけてくれなかった。
目の前の医者――高坂雪洋だけが、初めて聞いてくれた。
この先生は、ちゃんと私を見てくれる。
検査結果しか見ない今までの医者とは違う。
今日この先生と出会ったことで、これから私は、何か変われる気がする。
期待と運命のようなものを、美咲は雪洋に強く感じずにはいられなかった。
何から話したらいいか。
嬉しくて頭の中がまとまらない。
涙も止めることができない。
「精神的にもだいぶ参っているようですね。涙もろくていらっしゃる」
「だって、今までそんな……言ってくれる、お医者さ……いなか……っ」
すみません、と嗚咽まじりに言って涙を拭き、何とか落ち着いて質問に答える。
「他には関節が痛いです。膝、足首、肘……。手首や手の甲も、朝起きたらなんでか腫れてることがあります。全身の筋肉が痛くてだるい時もあります。長時間体重がかかったところも痛くなったり、コブが出たり……。足の裏も腫れぼったくなって、立っているだけでも辛いです」
いつも帰宅すると、倒れるだけだった。
「今思いつく症状は……とりあえずこんなところです」
一息に話し、美咲は大きく息を吐いた。
ちらりと目線を上げると、雪洋は眉をひそめ、真剣な面持ちで美咲の体を見つめている。
「なるほど。あとはこの網状皮斑ですね」
「なんですか?」
モウジョウヒハン、と滑舌よく言って、雪洋が美咲の足の甲を指した。
上体を起こして自分の足を見る。
「足の甲が網目模様になっているでしょう? 肌の色も悪い」
「言われてみれば網状ですね……。でも色、悪いですか? 普通の肌色に見えますけど」
雪洋は靴下を片方脱いで診察台に乗せ、美咲の足と並べて見せた。
「どうですか? 私の足と比べてみて」
並べられて初めて気付く。美咲の足は、プールから上がった小学生の唇のように青紫がかっていた。一方雪洋の足は、血色のよい健康的な肌色をしている。
「先生、肌きれいですね」
「羨ましいですか?」
……しれっとして案外言ってくれる。
見かけによらない雪洋の一面に口端が引きつった。
「天野さんは普段どのようなお仕事を?」
「ええと……基本的にはパソコン仕事です」
「座り仕事ですか。足は下げっぱなしですよね。今は安静にしてほしいところなんですが。休めないですか?」
え、と思わず声を上げる。
「無理です」と答えると、すぐに「なぜ?」と返された。
「なぜって仕事が遅れますから」
「他に代わりは?」
「無理です。専門的な仕事だし少人数で回してるし……。それに後輩に仕事を教えなきゃいけないので、通常業務と教育の両方で――とにかく余裕がないんです」
休むなんて無理だ。
私がやらなければ。
「それは上にも問題があるような気がしますがねえ。倒れた時に代わりが利かないというのはいかがなものか」
「でも先生だって一人でしょう? 普通、他にスタッフがいそうなものですけど」
一瞬の間をおいて、雪洋が声を上げて笑った。
「スタッフは他にもいますよ。でも土曜日の午後は休診なんでね、スタッフは帰しました」
「じゃあどうして私の予約……。もしかして無理に――」
雪洋が片手を挙げて制す。
「単なる私の気まぐれです。心配しないでください」
にっこりと微笑むと、雪洋は美咲の指に目を向けた。
「お話聞いてると、何かはおかしいんですよね……」
雪洋の言葉はことごとく嬉しかった。
検査結果だけで「異常無し」と言う医者たちとは違う。話を聞いて、体を見て、ちゃんとおかしいと言ってくれる。
はっきり突き止められなくてもいい。
異常が無いことが良いのではない。
きちんと向き合ってくれているということが、何より嬉しいのだ。
こんな状況だというのに、美咲は顔がほころぶのを止められなかった。
嬉し涙まで出てくる。
「天野さん。私からひとつ、提案があるのですが」
「……また転院ですか?」
一気に顔が曇る。
せっかく導いてくれる医者に巡り会えたと思っていたのに。
「いいえ、そうではありません。むしろ逆です」
雪洋は微笑みながら、しかし見る者を引きつける強い目で美咲を見据えた。
「ここにしばらく、住んでみませんか?」
最初のコメントを投稿しよう!