提案

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「体の痛みはいつからですか?」 「五、六年前から……」 「この紫斑は?」 「一年くらい前から時々。今は、毎日……」 診察台で仰向けになったまま、美咲は答えた。 「病院へは?」 「先月、個人病院から出された薬で一ヶ月様子をみましたけど、何も変わりません」 「先月? 一年前と、五、六年前は?」 「……五年前までは行ってましたけど、それ以降、病院へは行ってません」 あからさまに美咲の声のトーンが落ちた。 雪洋(ゆきひろ)から目をそらす。美咲の口元は笑っていたが、目はひどく陰鬱だった。 何で私がこんな目に。 失望、憎しみ、狂気に似た怒りがとぐろを巻いて、美咲の拳を振るわせる。 雪洋は目を細めてその様子を見つめていた。 「どうして病院へ行かなかったんですか?」 その言葉に目尻がぴくっと痙攣する。 「どうせ『異常無し』とか『原因不明』って言われておしまいですから。今回は同僚に行けとしつこく言われたから来たまでで。そうでなければ――」 ――そうでなければ、誰が病院なんか行くものか。 あちこちおかしいのはいつものことだし、仕事も忙しかった。医者に診せたところで、何かが変わるとは思えなかった。 唇を噛んでいると、外の路地から友達を呼ぶ少女の明るい笑い声が聞こえた。 声につられて窓の方へ顔を向ける。 横になっているから声の主は見えないが、空が見えた。 吸い込まれそうな真っ青な空に、少女の声。 部活を終えて帰宅途中だろうか。 声を上げながら弾むように路地を駆け抜ける。 少女たちの声が、足音とともに遠くなっていった。 走れなくなってから、もう何年経つだろう。 足は早い方だった。 なのにいつからか、まともに歩くことさえできなくなった。 気がつけば二十七歳。 女性として輝くはずだった時は、泣きながら痛みに屈する日々でしかない。 窓の四角い空を見つめ続ける。 もうそこに、元気な少女はいないのに―― 弱い風が木々をかすかに揺らす。 鳥が甲高く鳴いて、木の陰から飛び立った。 その音で美咲の意識が急に現実に引き戻され、慌てて雪洋へ向き直る。 「すみません、お話の途中だったのにボーっとして……」 何の話をしていたのだったか……。 随分と長い間、ぼんやりしていた気がする。 雪洋を見ると、さして怒った様子もない。 穏やかに見守っていた。 「所々傷もありますね。膝とくるぶしと肘と……。随分こじれている。というより潰瘍ですねこれは。これだけでも相当痛いでしょう」 「体重がかかるところ、ぶつけやすいところはすぐコブになったり傷になったりします。すんなり治ったためしがありません」 「そうですか……。今度は手を見せてください」 美咲の手を取り、じっくりと検分する。 シモヤケのように所々赤くなり、ペンダコのようにぼこぼことコブがある指。 「さわられて痛くないですか?」 「痛くないです。でも物にぶつけた時は、軽くでもすごく痛いです。あと指先が腫れることもあります」 かすかにうなるような声を漏らして、雪洋がうなずいた。 「天野さん、他には?」 「え?」 「他に何か気になるところありませんか? おかしいと思う症状、全部言ってください」 美咲は目を見開いた。 すぐに質問に答えることができない。 おかしいと思う症状なんて数え切れないほどある。それなのに今までどの医者も興味を持ってくれなかった。誰一人、そんな言葉はかけてくれなかった。 目の前の医者――高坂雪洋だけが、初めて聞いてくれた。 この先生は、ちゃんと私を見てくれる。 検査結果しか見ない今までの医者とは違う。 今日この先生と出会ったことで、これから私は、何か変われる気がする。 期待と運命のようなものを、美咲は雪洋に強く感じずにはいられなかった。 何から話したらいいか。 嬉しくて頭の中がまとまらない。 涙も止めることができない。 「精神的にもだいぶ参っているようですね。涙もろくていらっしゃる」 「だって、今までそんな……言ってくれる、お医者さ……いなか……っ」 すみません、と嗚咽まじりに言って涙を拭き、何とか落ち着いて質問に答える。 「他には関節が痛いです。膝、足首、肘……。手首や手の甲も、朝起きたらなんでか腫れてることがあります。全身の筋肉が痛くてだるい時もあります。長時間体重がかかったところも痛くなったり、コブが出たり……。足の裏も腫れぼったくなって、立っているだけでも辛いです」 いつも帰宅すると、倒れるだけだった。 「今思いつく症状は……とりあえずこんなところです」 一息に話し、美咲は大きく息を吐いた。 ちらりと目線を上げると、雪洋は眉をひそめ、真剣な面持ちで美咲の体を見つめている。 「なるほど。あとはこの網状皮斑ですね」 「なんですか?」 モウジョウヒハン、と滑舌よく言って、雪洋が美咲の足の甲を指した。 上体を起こして自分の足を見る。 「足の甲が網目模様になっているでしょう? 肌の色も悪い」 「言われてみれば網状ですね……。でも色、悪いですか? 普通の肌色に見えますけど」 雪洋は靴下を片方脱いで診察台に乗せ、美咲の足と並べて見せた。 「どうですか? 私の足と比べてみて」 並べられて初めて気付く。美咲の足は、プールから上がった小学生の唇のように青紫がかっていた。一方雪洋の足は、血色のよい健康的な肌色をしている。 「先生、肌きれいですね」 「羨ましいですか?」 ……しれっとして案外言ってくれる。 見かけによらない雪洋の一面に口端が引きつった。 「天野さんは普段どのようなお仕事を?」 「ええと……基本的にはパソコン仕事です」 「座り仕事ですか。足は下げっぱなしですよね。今は安静にしてほしいところなんですが。休めないですか?」 え、と思わず声を上げる。 「無理です」と答えると、すぐに「なぜ?」と返された。 「なぜって仕事が遅れますから」 「他に代わりは?」 「無理です。専門的な仕事だし少人数で回してるし……。それに後輩に仕事を教えなきゃいけないので、通常業務と教育の両方で――とにかく余裕がないんです」 休むなんて無理だ。 私がやらなければ。 「それは上にも問題があるような気がしますがねえ。倒れた時に代わりが利かないというのはいかがなものか」 「でも先生だって一人でしょう? 普通、他にスタッフがいそうなものですけど」 一瞬の間をおいて、雪洋が声を上げて笑った。 「スタッフは他にもいますよ。でも土曜日の午後は休診なんでね、スタッフは帰しました」 「じゃあどうして私の予約……。もしかして無理に――」 雪洋が片手を挙げて制す。 「単なる私の気まぐれです。心配しないでください」 にっこりと微笑むと、雪洋は美咲の指に目を向けた。 「お話聞いてると、何かはおかしいんですよね……」 雪洋の言葉はことごとく嬉しかった。 検査結果だけで「異常無し」と言う医者たちとは違う。話を聞いて、体を見て、ちゃんとおかしいと言ってくれる。 はっきり突き止められなくてもいい。 異常が無いことが良いのではない。 きちんと向き合ってくれているということが、何より嬉しいのだ。 こんな状況だというのに、美咲は顔がほころぶのを止められなかった。 嬉し涙まで出てくる。 「天野さん。私からひとつ、提案があるのですが」 「……また転院ですか?」 一気に顔が曇る。 せっかく導いてくれる医者に巡り会えたと思っていたのに。 「いいえ、そうではありません。むしろ逆です」 雪洋は微笑みながら、しかし見る者を引きつける強い目で美咲を見据えた。 「ここにしばらく、住んでみませんか?」
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