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すぐには言われたことの意味がわからなかった。
二回ほど目をしばたかせる。
「住む? ……ええと、入院ってことでしょうか?」
「いえ、入院施設はないのでね。医院の建屋ではなく、私が普段生活している母屋の、ごく普通の部屋に住んでもらいます」
それは、つまり――
「……同居?」
「同居でも合宿でも、その辺は天野さんの好きな呼び方で構いませんよ」
雪洋が悪意のない顔でにっこりと微笑む。
「目的は生活のサポートと改善、それと体質もできる限りよい方へ向ける、といったところでしょうか。もちろん治療と観察もします」
美咲の眉根が寄る。
「あの、こちらではそういう診療方法をよくやるんですか?」
「いいえ。私一人ではさすがに入院患者まで手が回りませんから、外来のみです」
「じゃあどうして私にはここに住めと?」
「そうすることが必要だと思ったからです。天野さん、顔に不信感が表れてますよ」
雪洋がおもしろそうに笑った。
「不安ですか? 医師免許ならちゃんと持ってますよ。見せましょうか」
「いえ、そうじゃなくて」
美咲は眉間にしわを寄せ、額に手を当てた。
「バリアフリーだから生活が楽になりますよ」
「何言ってんですか。玄関のドア、重くて開けるの苦労しましたよ」
「ああ、それは失礼しました。でも母屋は軽いドアですから」
「そりゃよかった」
「じゃ、決まりで」
「いやいや、おかしくないですか? 常識で考えて、何かがおかしくないですか?」
「おかしいですか?」
「おかしいですよ」
「大丈夫。私、変わり者って呼ばれてましたから」
何が大丈夫なんだか。
大体変わり者の医者って大丈夫なのか。
「年頃の男女が一つ屋根の下というのが気になりますか?」
「まあそうですね。普通そうですよね」
「ご心配なく。女性より皮膚異常の方が興味ありますから」
「わあ安心した。――ってそうじゃなくて!」
「料理は得意ですからご心配なく。天野さんはとにかく療養に励んでください。本当は仕事も長期休暇取るか辞めるかしてほしいんですけど」
「この不景気に辞めろと? 生活できませんよ」
「大丈夫です。あなた一人くらいは養えますから」
「犬や猫じゃあるまいし、ただお世話になるなんてできません。どのくらいここで過ごすんですか?」
「最低一年ですね」
「一年っ?」
「四季を一通り過ごしてみないと、体への影響がわからないでしょう? あとは天野さんの体調次第で一年半になるか二年になるか――。アパートなら一旦引き払った方がいいかも知れませんね。家賃も無駄になりますし」
「いや、ちょっと待ってください……」
「最低一年、遊んで暮らすチャンスですよ?」
そんなばかな話があるか。
「先生、今は再就職の方が難しい世の中なんですよ」
「そういう世の中だから、あなたみたいに無理して働く人が出てくるんですよ。国ももう少し頑張ってもらわないと困りますね。天野さんは心配しないで私に任せてください」
「今日初めて会った先生に丸ごと面倒みてもらうとか無理です。しかも一年!」
「損する性格ですねえ」
「……自覚はしてます。でも生活費くらいは出さないと」
「生活費を払わないことがストレスになるというなら、受け取りましょうか」
「受け取ってください! 100%おんぶに抱っこなんて肩身が狭すぎます!」
気がつくと雪洋が嬉しそうに笑みを漏らしていた。
「良かった。天野さんの中ではもう答えが決まっているようですね」
はっ、と我に返って口が開く。
「いやっ、今のはあくまで同居したらという仮定の話で……」
拒む姿勢を崩さない美咲に、雪洋が「それとも」と追い討ちをかける。
「どなたか家で待っている方でもいらっしゃいますか?」
一瞬詰まってから「……いませんけど」と答えると、間髪を容れずに雪洋が「でしょうね」と返した。
「でしょうねって、失礼しちゃいますね。なんでいないって決めつけるんですか」
「イメージです」
口端が引きつる。
どれだけ失礼なイメージを抱いているんだこの医者は。
「失礼ながら、そんなに卑屈な表情で四六時中いられたら、器が小さく理解のない男性の場合、すぐに離れてしまうんじゃないかと想像しました」
本当に失礼極まりない。
でも、間違ってはいない。
「……常識で考えて、普通のお医者さんはこういうことしませんよね。治療のためならわざわざこんなことしなくても、他の病院に移して入院させますよね?」
「常識から外れていると不安ですか?」
「不安です」
疑いのまなざしを向ける。
雪洋はそれをしっかりと受け止め、美咲を見つめた。
「常識的な治療しかしなかったら、天野さんはきっと、今より悪くなりますよ」
静かに語る雪洋の言葉にはっとする。
「普通の医者、普通の病院だったら、入院させてくれません。今は昔に比べて随分入院しづらい環境になったものです。会社を休めない、辞められないのなら、尚更ここで生活するべきです。今のその状況で、一人で普通の生活ができますか?」
唇を噛む。
雪洋が続ける。
「今までと同じ生活を続けて、良くなると思いますか?」
雪洋の言うことは、至極もっともだ。
思い出せ五年前のことを。
今の自分はあの時よりも明らかに悪化している。
ならばこれから五年後は? その先は?
この体はどうなってゆくのか。
だったら――
美咲の中でひとつの答えがまとまり始める。
痛みに歯を食いしばって体を起こし、美咲は雪洋を見据えた。
「『原因不明』『異常無し』しか言わない医者には辟易しました。だからって一人じゃ治す方法もわからない。そうですよね、医者も私も、今までと同じでは何も変わりませんよね」
泣き崩れたい気持ちに負けないように、にらむように雪洋を見つめる。
「先生なら、私を、見放しませんか?」
心からの問いに、声が揺れる。
「先生なら、五年前の医者たちのように、私を見捨てたりしませんかっ?」
声は悲痛な叫びとなった。
「決して、あなたを見捨てません」
雪洋が静かに答える。
「約束します」
その言葉を聞いて、美咲の目から大粒の涙がボロボロとあふれ出た。
心の壁がまた一枚、はがれ落ちてゆく。
「あとは、あなたがどうしたいかです」
どうしたいか――
「異常無し」と言った医者に失望し、愛想笑いで苦痛を隠してきた日々。
でも今度は違う。
初めて異常だと言ってくれる医者に出会えた。
この医者の前では強がりも愛想笑いも必要ない。
失望することもない。
あるのは信頼と、希望。
「天野さん、あなたの気持ちを聞かせてください」
心は決まった。もう迷いはない。
目の前の医者に伝えたいことはただ一つ。
美咲はあふれ出る思いに嗚咽し、倒れこむように雪洋へしがみついた。
「助けて……ください……っ」
それが、長い間言いたくても言えずにいた、美咲の本心。
泣き崩れる美咲を、雪洋はしっかりと受け止めた。
「もちろんです」
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