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同居入院、開始
「天野さん、一人で歩かないでください。何のために私がいると思ってるんですか」
同居は開始されたが、雪洋の目が離れると、美咲は自分一人で歩こうとしていた。
「すみません。つい、いつもの癖で……」
でも本当の理由は別にある。
「先生、普段は白衣……着ないんですよね……」
「白衣? 白衣が好きなんですか?」
「そういう趣味はありません」
「勤務中はもちろん着てますよ。スクラブ白衣ですけど」
スクラブ白衣……医院で着てた紺色のあれか。
「家では着ませんよ」
そりゃそうだ、と普段着姿の雪洋から目をそらす。
「ああそうだ、何かあったらこれを押してください」
雪洋が手に乗せて見せたのは、厚みのある円形の中央に「CALL」と記された大きなボタン。……どこかで見たことがある。
「ファミレスのアレですか?」
ご注文が決まりましたらボタンを押してお知らせください、のボタンだ。
「ナースコールの代わりです。枕元に置きますから、夜中、何かあったら押してくださいね。私の部屋に繋がってます。この部屋とリビング、トイレとお風呂場に置いてますから」
「でも昼間お仕事しているのに、夜中に呼んだりしたら……」
雪洋が手のひらを向けて美咲を制した。
「天野さんは少し、人の顔色を気にしすぎる傾向がありますね。それも病状悪化の要因の一つでしょう。ここにいる間は図々しくいてください」
それは美咲にとって、あまり得意なことではなかった。
深夜、体の痛みで目が覚める。
毎晩のことだが決して慣れることはない。
ベッドに当たる肩や骨盤、かかとの痛み、それに膝も肘も固まっていて動かない。
痛い、だるい、苦しい、動けない。
うめいていた声はやがて涙声に変わった。
不意に、雪洋の存在を思い出す。
そうだもう一人じゃない。
歯を食いしばって、枕元の棚にあるコールボタンへ向かって体を動かす。
「う……っ」
肘をついて体を起こしかけたところで、肩と肘に痛みが走ってガクッと倒れこむ。
コールボタンさえ押せない。
何もできない。
布団がはだけてあらわになった肩が冷える。
冷えは更に痛みを呼ぶ。
自分の情けなさに、頬を涙が伝った。
常夜灯に照らされた部屋。
涙で潤んだ視界に、寝る前に読んでいたハードカバーの本が映った。
これならなんとか届く。
美咲は首を伸ばして本に自分の額を当て、ベッドから押し出した。落下した本の角が床に当たり、ゴトッと低く響くような音を立てる。
気付いて、先生。
痛みに耐えながら美咲は祈るしかない。
ほどなく、そっとドアをノックする音が聞こえた。
「天野さん、起きているんですか?」
「先……生……」
涙声で呼ぶ。
ドアが開き、雪洋が足早に駆け寄ってきた。
「どうしました」
のぞき込んでくる雪洋は、Tシャツにスウェットパンツ姿。
美咲の顔が硬直した。
もう一度どうしましたと雪洋が聞いてくる。
美咲がようやく絞り出したのは、「大丈夫です」という言葉。
「どう見ても大丈夫じゃないでしょう」
観念して正直に痛みを伝える。
「全身の関節が固まって……、痛くて動けません……」
「わかりました。血行がよくなるようにマッサージをしますからね。ゆっくり体をほぐしていきましょう」
「すみません夜中に……」
「何かあったら呼んでいいと言ったでしょう。謝らないでください」
雪洋が慎重に美咲の体を仰向けにし、膝の下にクッションを入れる。伸びきって固まっていた膝が、軽く山なりになっただけでだいぶ楽になった。
「これからは毎晩マッサージをしに来ますね。まずは安眠を確保しないと」
毎晩――
美咲の顔が曇る。
「あの、大丈夫ですからそんな毎晩、夜中にわざわざ――」
言いかけた美咲の言葉は、途中で雪洋に「却下します」と遮られた。
「主治医として、夜中にマッサージをする必要があると判断しました」
物腰は柔らかだが、絶対に決定は覆さないという言いようだ。
美咲は雪洋から目をそらした。
「じゃあ、どうしても夜中に来るというなら……次からは白衣を着てもらえませんか」
「白衣じゃないと気になりますか?」
「こんな姿を人に見られたくありません。……特に男の人には」
別れた彼とのことを思い出す。
美咲の体に辟易して、彼は去っていった。
「白衣を着ても性別は変わりませんが」
「でも白衣を着ていれば『医者』です。こんな姿、医者にしか見せたくありません」
ギリッと歯噛みする美咲を、雪洋は目を細めて見つめた。
「わかりました。女性相手ですしね。夜中に来る時は白衣を着ることにしましょう。十秒だけ待っていてくださいね」
そう言うと雪洋は一旦二階の部屋へ戻り、すぐに駆け下りてきた。
「これで大丈夫ですか?」
ボタンで留めるタイプの、昔ながらの白衣を羽織っている。ボタンはかけず、ただ羽織っただけ。それでも白衣を着た「医者」の姿に安堵した。
上から順に全身をまんべんなくほぐされる。
浅かった呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
「てっきり天野さんは医者が嫌いなんだと思ってましたが」
「元々お医者さんのことは無条件で信頼していました。……こういう体になるまでは」
「じゃあ今は?」
「……五年前の医者たちは嫌いです。ろくに私を診てくれなかった。検査結果だけで『異常無し』って言い放って……!」
のどが詰まる。
あの頃のことは、まだこんなにも、傷が深い。
「書類や画面だけ見て、じゃあ私のこの指はどう見えるのよ! ――って、目の前に突き出してやりたかった」
「いっそ突き出してくれればよかったのに」
雪洋が目を細める。
微笑んでいるようにも、悲しんでいるようにも見えた。
「でも先生に出会えたからよかった。ちゃんと私の目を見て、話を聞いてくれたもの」
表情の変化がさほど見られないまま、雪洋は関節を一箇所ずつ念入りにほぐし始めた。
「毎晩眠れないくらい痛むんですか?」
「あ、はい」
「寝不足のまま毎日残業では大変でしょう」
「……はい」
「仕事は好きですか?」
「今は……あまり……」
「そうですか」
雪洋はそれ以上深くは聞かなかった。
マッサージで体が徐々にほぐれてゆく。
体があたたかくなり、呼吸も深くなった。
気持ちも一緒に、ほぐれていくような気がした。
「先生……」
ぽつりと口を開くと、雪洋は「ん?」と優しく聞き返した。
「先生のイメージ通りです。私ね、彼がいたんですけど、……捨てられました」
彼と二人でいた頃の夜を思い出す。
「こんな体です。体中痛くて、彼に集中することができません。女として情けないし、彼にも申し訳ないし……。自分の体を呪って不平不満の暗い顔ばかりしていたと思います」
涙が浮かんできた。
白衣を着た雪洋には抵抗なく弱い部分を見せてしまう。
「彼もだんだん辟易して……。もともと、弱い姿を見せ合えるほどの仲でもありません。だから彼に未練はないんですけど……」
「無理しなくていいんですよ」
美咲は静かに首を振った。
「本当に未練はないんです。助けてほしい時に助けてくれないんだってことが、早い段階でわかっちゃったから。それ以前に私は、なんの要求にも応えられない女だし……」
声が揺れた。
気持ちが、情けなく乱れてゆく。
「しょうがないですよね。だってまだ二十代なのに、これじゃ介護と変わらない。私だってこんな体に腹が立って悔しくて、でもどうしようもない。彼だって――彼じゃなくたって、面倒臭い女だって思って当然ですよ。先生だって――」
そこで言葉を止める。
――先生だって、プライベートな時間までこんな面倒くさい女の面倒を毎日みていたら、……きっと、嫌になる。
「ここに住みなさいと言ったのは私です。不安になる必要はありませんよ」
雪洋がティッシュを取って涙を拭いてくれた。
「すみません……」
発した声が異様に小さかった。
気持ちもすっかりしぼんでしまった。
「未練はありません。これは本当です。でもね、先生。……私、もう二十七歳なんですよ。周りから『まだ結婚しないのか』とか、色々と言われる年なんですよ」
悔し涙が込み上げてくる。
なぜ女性はこんなに年齢制限が厳しいのか。
「だから女が二十七でふられてね、これからまたやり直すってね、結構辛いものが……」
雪洋がもう一度ティッシュを取って渡してくれる。ティッシュを受け取って目に押しつけていると、頭を優しくなでられた。
「天野さん、『もう』二十七じゃありませんよ。『まだ』二十七なんです。これからですよ」
「……ありがと、先生」
素直に嬉しかった。
近頃はすっかり涙もろくなってしまった。
「天野さんそれにね、支えてほしい時に助けてくれないその彼と結婚して不幸を感じるくらいだったら、こうやって静養して新しいスタートを切る方がよっぽどいい。長い目で見て、天野さんのためだと思いますよ」
「そうですね……。そうですよね……」
自分に言い聞かせるように繰り返す。
嬉しくて、あたたかい涙が止まらない。
いつの間にか美咲の顔に笑みが浮かんでいた。
冷えきって固まった体も、マッサージのおかげでだいぶ楽になってきた。
泣き疲れて、まぶたが重くなる。
「先生……」
呼びかけると雪洋はまた優しく「ん?」と聞き返した。
「『異常無し』って言われた患者は、どこへ行ったらいいですか……?」
何度その言葉を言われてきたか。
思い出す病院行脚。
それは屈辱の日々。
寝言のような声で問うと、雪洋は「そうですね……」と言ったきり何も答えなかった。
ふと、雪洋の白衣姿が記憶の何かに触れた。
「あれ? 気のせいかな。先生の白衣姿、どこかで……」
言いながら、ぬくもりとまどろみでティッシュを持っていた手に意識が通わなくなってきた。
その手がゆっくりとベッドへ落ちる。
雪洋は涙で湿ったティッシュをそっと取り上げ、美咲の目尻に残っていた涙を拭き取った。
「――気のせいですよ」
雪洋が囁くと美咲は、そっか、とわずかに唇を動かして眠りに落ちた。
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