第六章 最後の戦い

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 いま、誰が声を発したのか。みなが黒薔薇を断頭台の上に立たせようと、手ぐすね引いて待っている中で、いったい誰が自分を擁護しようというのか。  しかも、あの人と同じ低く麗しいテノールで。でも、そんなことがあるだろうか。あの人は軍を任せられていて、このような場所にいるはずかない、けれど、この声は恋しいあの人の声だ。自分は正体を失ってしまったのだろうか。振り返った先に、いますぐにでもその腕で抱きしめてほしい、愛しの彼がいるなど。 「なんとか間に合ったぞ、姫さん!」  彼の後ろにはマティウスがいて、自分に向けて片目をつぶって笑っている。マティウス、もう死んでしまうと言われていたのに!  ――幻、じゃないの……?  一目だけ会いたいという、名状しがたい思いが天に届いたというのか。 「――ハインリッヒさま……どうしてここに……」  二度と口にはするまいと思っていたのに、彼の名が口をついて出る。だがハインリッヒは穏やかな微笑みを浮かべたまま、こちらへと近づいて来るではないか。とたん、衛兵が彼を囲み、槍で牽制する。判決をいまかいまかと待っていた貴族が、闖入者に荒げた声を上げた。 「ルーデル将軍! 皇帝陛下の許しなく謁見の間に入るとは、なんたる迂愚(うぐ)!」 「いかに陛下の信が厚かろうと、許されることではあるまいぞ!」  しかしいくら詰責(きつせき)を受けようと、ハインリッヒはさんざめく広間の中央を、まっすぐに歩いてくる。 「将軍、お止まりください」  衛兵が最後の忠告とばかりにハインリッヒの喉元に槍のきっさきを突きつける。だが彼はその鋭い刃先をつかみ無理やりに退ける。と、その右手から血が溢れに溢れて床に滴った。黒薔薇は痛みも忘れて矢も楯もたまらず叫ぶ。 「やめてっ! 手を離して!」  彼が傷つくのを、黙って見ていることなどできはしない。しかしハインリッヒは愛しげな光を瞳に浮かべて黒薔薇を見つめてくる。 「可哀想に……私のためにこのような辛い目にあって。マティウスの急告がなければ、この場に赴くこともできなかった」  言葉が出ない。マティウスがハインリッヒに報告したのか? そして二人で皇帝の前に出てきて、いったいなにをしようというのか。だがこの喧騒の中、二人はまったく懸念したようすがない、それどころかにこやかに微笑んでいる。 「危惧する必要はないよ、安心しなさい」
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