第六章 最後の戦い

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 右手を深く傷つけているというのに、ハインリッヒは安穏とした態度を崩さない。皇帝を前にして心得顔でなおも黒薔薇に近づいてくる。すると彼の行動に怒り心頭に発した貴族の一人が激しい怒声を浴びせた。 「ハインリッヒ・ルーデル! 帝国の英雄もこの毒婦の色香に犯されたか! 逆賊に成り下がりおって、貴殿も不敬罪でこの場で裁かれるがいいッ!」 「不敬罪は貴男だ。口を慎め」  マティウスが悠揚さをかなぐり捨て、いつもとは違う冷然とした声で戒めの言葉を口にする。一転して鳴りを静めた広間を、ハインリッヒが少しも臆さぬ様子で歩き、ついに黒薔薇のもとへとたどり着く。壊れ物のように優しく触れられて、黒薔薇は場を忘れて泣きそうになった。 「……辛そうだ……どこか痛めているようだね」 「背中を……」  この人を誤魔化せるわけがない。誰よりも叡智に富んだ方。この愛する人を守ろうとしたが、本人を前にするとその決意もまるで籾殻のように吹き飛んでしまう。  ふわりと抱き上げられ、ひたいに口付けられる。事の成り行きを見守って静まりかえった場内を、ハインリッヒの泰然とした声が支配する。 「私のせいで、君を酷い目にあわせてしまったね……でも君は恐れなかった。ならば私も、もう恐れ隠れるのを止めよう」  恐れる……? この勇敢な人が、いったいなにを恐れるというのか。黒薔薇の表情を巧みに読み取ったハインリッヒが、穏やかさを捨てて厳粛な面持ちで語りかける。 「私でも恐れることはあるよ。例えば君がこんなに傷つくことに」  真摯な瞳でそう言われては、黒薔薇は温もりにすがりついて、彼の首に腕をまわすしかなかった。もう一度、今度は少し力を入れて抱きしめられる。 「私の居ぬ間に君が失われるかもしれない……恐怖した、居ても立っても居られずに、ここに来た、だから――」  ハインリッヒの翠の瞳が、玉座に立つ二人に注がれた。彼らは突然のことに喫驚(きっきょう)し狼狽していた。だが何人(なんぴと)たりともハインリッヒの有無を言わせぬ瞳には逆らえはしない。 「フランツ・モルゲン、これから言うことを、全帝国臣民の耳に届くように書き留め、触れを出すよう手配しなさい。これは天命だ」  天命。それは皇帝からの命のことだ。フランツと呼ばれた"皇帝だった"男がうやうやしく頭を下げて玉座から下座に降りると、ハインリッヒの前にひざまずき、うわずった声をあげた。
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