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木々の狭間を夜鳥の求愛のさえずりがこだまして、幾十にも重なっては反響していく。見上げれば枝々の隙間から銀色の月の光が降り注ぎ、星明かりが優しく天上でまたたいている。
「ハインリッヒさま、もうじき迎えの者が参ります……そんなに力を込められては、離れることができません……」
木のはけたぽっかりとした空間には、初秋を彩る蛍草が、その藍色の花を風にのせて優しく揺れていた。
「すまないね。でも君とずっとこうして抱き合っていたいんだ……。この手を離したら、君がどこか遠くへ行ってしまう気がしてね」
蛍草の上に外套を広げてその上に座し、人目を忍んで情を深めあう男女の姿が、星明かりの森に照らし出されてあらわになる。
「そんなことはありません……また、すぐにお会いできます」
言いながらも恋心がふたりをいっそう離れがたくさせ、抱きしめあう腕に力を込めさせる。男の腕の中で、少女の指通りの良い宵闇のような髪が、その白い頬の上をさらりと流れていく。少女の瞳は空よりも青く、海よりも深遠で、口で語るよりも多くの恋慕の情を男に教えてくれた。
彼女を抱きしめる男は背が高く、金糸の髪と翡翠のような淡緑の瞳が、女への慕わしい思いを浮かべて鮮やかにきらめいている。
そのとき一筋の雲が月を覆い隠して、あたりを暗くさせた。冥暗を恐れるように、黒髪の女が体をこわばらせると、金糸の男はなだめるように彼女の髪を優しく撫でて、口づけを落とした。
「大丈夫だよ、黒薔薇……。私がいる」
黒薔薇と呼ばれた女の顔が、雲が晴れた月にいま再び照らされて、鮮明に浮き彫りになった。透けるような白い肌に、吸い込まれるような大きな青き瞳、丹花の唇はふっくらと柔らかそうで、ひとつの彫刻のように美しかった。夢見るような、いまだあどけない顔立ちは、彼女の妖精めいた風貌をよりいっそう愛らしいものへと変えていた。
「ハインリッヒさま……」
――もうじきに迎えの者が来てしまう……。
切なさが胸を押しひしぎ、声を詰まらせる。あとほんの少しだけ、あともう一刻だけ……。
離れがたい思いが伝わったのか、ハインリッヒと呼ばれた男が再び黒薔薇の唇を求めた。男もまた非常に端正な顔立ちで、年の頃は黒薔薇よりも一回りほど年上に見えた。壮齢の男性らしい力強さと理知的な面差しが印象的で、絢爛豪奢な軍服がよく映える。
「約束を、覚えているかい?」
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