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ハインリッヒの声は低く麗しい音色で、耳に心地よい一方でどこか曇っていた。だが黒薔薇はその話になった瞬間、弾んだ声をあげて、胸の前で手を合わせる。
「もちろんです。今月の末日、月が沈み始める頃、ここでお会いすると……。荷物はとうにまとめてあります」
「必ず、君が来てくれることを信じているよ……」
もう一度だけ約束を確かめるように唇を重ね合わせ、二人は互いを抱きしめる腕をといた。自分たちを迎えに来る鈴の合図が聞こえたからだ。
しばらくすると森の西から二頭の馬を連れた茶髪の男があらわれ、東からは洋燈を片手に持った、ふたつのおさげが印象的な女が姿を月明かりの下にあらわにした。
「ルーデル将軍、時間です……へっ、良い雰囲気ぶち壊してすいませんね」
「口が減らないね、君は。まあ毎度毎度すまないと思っているよ。マティウス」
茶髪の男は器用に二頭の馬の手綱を取り、鞍からおりて黒薔薇の前に進みでると、その手を取ってふざけ半分の礼をした。
「姫さんもお元気そうで。まあこんな別嬪さんに会えるなら、毎回夜更けに呼び出されるのもあり、ですかね」
――マティウスったら、ハインリッヒさまになんて口の利き方をするのかしら。
だいたい、自分に会えば二言目には「別嬪」だとか「お美しい」とかそんなことばかり口にするのだ。この男があのイシュタリア帝国の軍師補佐官だなんて、まるで信じられない。帝国でも屈指の名家、シーリンガー伯爵家の長男で、女遊びも嗜みのひとつだと、聞き過ごすことのできないことをさらりと言うものだから、黒薔薇はこの男のことが気に入らない。自称イシュタリア帝国一のプレイボーイだっていうのも、あながち嘘ではないかもしれない。
――ハインリッヒさまの誠実さのかけらもない人が、右腕を務めているなんて……。
そう目の前にいる、恋しい人は――ハインリッヒ・ルーデル将軍。イシュタリア帝国の領土をこの十年間で瞬く間に広げた英雄――そして黒薔薇の国、アルメダ王国の最大の敵。
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