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「姫さまぁ、そろそろ戻らないと、衛兵さんに気づかれちゃいますぅ!」
東からやってきて舌っ足らずな声をあげたのは、お仕着せをしっかり着込んだ黒薔薇の侍女だ。彼女はふたつの栗色のおさげをぴょこぴょこさせて、肩で息をしながら黒薔薇のもとへ近寄ってくる。
「ニーナ……ええ、分かったわ。でも、もう少しだけ……」
いよいよ別れづらくなり、黒薔薇は名残惜しげにハインリッヒの袖を握って、頭二つほど高い彼の整った顔を見上げる。
「ハインリッヒさま、お国の方は……」
「ああそれ、皇帝は加減が悪いまま、皇子たちは険悪なまま皇位継承問題の真っ最中、それで妃たちは相変わらず……ったく、お偉いさまは暇でしょうがないらしい」
せっかくハインリッヒに聞いたのに、言葉を返してきたのはマティウス・シーリンガーで、黒薔薇はあからさまに嫌な顔をしてその顔を睨み付けてやった。
いちいち言葉を挟まないで欲しいものだ。こっちは売国の危険を冒してまで、愛しい恋人に会いに来ているというのに、そのわずかな時間に茶々を入れるなんて、無粋な人だ。
「姫さまぁ、そろそろ……」
侍女のニーナが急かすものだから、黒薔薇はしぶしぶアルメダ城への帰路につく。その直前にハインリッヒがいつもは怜悧にさえ見える理知的な面差しを柔らかく綻ばせ、黒薔薇に語りかける。その低い音色が、その麗しい言葉が、彼女の胸を痛いほどにときめかせた。
「愛しているよ、私の黒薔薇……次に会うときは、君を迎えに行く。手を取り合って、そしてもう離さない……」
――わたしも、その日を一日千秋の思いでお待ちしています、ハインリッヒさま……。
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