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夜半過ぎ、マティウスに連れられて黒薔薇は兵舎へと向かう。ハインリッヒに逢えると思うと胸が沸きたつ。どうにかして彼の愛を確かめようとばかり考えていたので、つい無言になってしまった。
「ほら、姫さん。珍しく黙(だんま)りだな……さーて、兵舎だ」
マティウスの手を借りて馬からおりると、彼は手を振って去っていった。今日は三時間ほど時間があるらしい。マティウスが糸を引いてブランケンハイム宮の使用人たちを言いくるめているようだが、きっと彼なりに黒薔薇を元気づけようとしているのだろう。
「ハインリッヒさま……?」
倉庫の重い扉を開けると、すでに蝋燭が燭台に立てられており、ハインリッヒが哀感が漂う出で立ちで黒薔薇の到着を待っていた。彼の腕が躍るように広げられ、黒薔薇はこらえることができず、その腕の中に身を投じた。
どこかほろ苦い香り、たくましい暖かな腕、蝋燭の火のように穏やかな眼差し――全てがハインリッヒのものだ。消そうと思った心は、いまや早鐘のように鼓動し始め、甘やかな痛みが、切ない思慕の情となって全身を駆け巡る。恋は思案の外と言うが、確かにこの心は理性では律しきれない、この小さな胸がはち切れそうだ。
「心配したんだよ? 度を過ぎた悪戯に、君が苦しめられていると聞いて」
「断頭台の招き人」のことは、すでに皇帝にまで知られている。だがただの嫌がらせとしか捉えてくれないのだ。マーサが死んでしまったのに。
「マーサのことを、馬鹿にされて……くやしくて。侍女だからって、ひどい――」
秀麗な顔が間近に迫ったかと思うと、労るように唇を優しく吸われた。それがとても心地よくて、黒薔薇は自分の皇妃として身分を忘れて、ひとときの慰めに酔いしれた。
「でも君は皇后となろうとしているのだから、自分を戒めることも必要だ、そうだね」
一転して、ハインリッヒは篤実ながら一本の芯のある口調で、黒薔薇の浅慮を諭す。
「君は気持ちが昂ぶると、口に任せてしまうところがある。ときには自分の弱さを認め、誠実に向き合うべきだと私は思う」
黒薔薇は先の晩餐会で、怒りにまかせて口を開いた。それがハインリッヒに伝わっていて、こうしてとがめられている。しょんぼりする黒薔薇の髪を撫でながら凪いだ声で彼は言った。
「――けれど、君はそれができる人だ……私はそう信じているよ」
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