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その日、須藤賀茂は帝都東京、神楽坂の料亭街にいた。神楽坂は置屋だけでも十数、それに加えて何軒もの料亭が軒を連ねる帝都有数の花街である。
黒い塀に囲まれた細い路地を、艶やかな着物姿の芸者衆たちが賑やかに駒下駄の音を響かせながら行き交っていた。雨上がりで濡れた石畳の小道は、それぞれの軒先にかけられた提灯が投げる、薄ぼんやりとした温かい光に温められている。
早稲田の陸軍宿舎から乗り付けた車を降りると、須藤は厳めしい顔で坂を登りだした。りゅうとした黒の背広にオールバックにした頭髪、丈は六尺より大きく、その上むっつりと寄せられた眉間とへの字に曲がった口で、部下からは陰で「野人大尉」と呼ばれている。だがこの鬼瓦のような顔は生まれつきの地顔であった。
「待たせたな」
女中に案内され、料亭の長い廊下を進んだ先の奥まったところにある座敷に通される。
襖を開けると、須藤を呼び出した人物が一人、座布団の上に胡坐をかいて悠長に牛鍋をすすっていた。
「このご時世に牛鍋なんざ、豪勢なものだねえ」
向かいに座りながら皮肉たっぷりに言うも、男ははふはふと口から湯気を出しながら、肉をがっついていた。大財閥や成金たちは好景気に沸いているものの、いまだ末端の庶民の生活は苦しい時勢である。
鍋がそんなに熱いのか、人間の肌とは思えないその白すぎる顔からしたたり落ちる大量の汗は、不思議と何とも言えない色気を漂わせている。魅惑的なその色気の原因はただの熱すぎる牛鍋に過ぎないのだが。
須藤は男が鍋を食い終わるのを大人しく待った。この男が食い終わるまでは話をしないことは長らくの付き合いの中で学んでいたことだった。男が嫌がるので煙草も吸えず、ただライターの蓋を開けては閉じ、開けては閉じと弄ぶことしかできない。静かな座敷に牛鍋をすする音と金属が重なる高音が響いていた。
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