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「ご馳走様」
男は両手を揃え、行儀よく頭を垂れた後、やっと須藤に気づいたのか、「ああ、須藤」と小さく呻いた。この反応には慣れたもので、「遅れちまって悪かった」と須藤も本日二度目の挨拶を交わした。
「で、一体、何の用だ」
「用と言うほどでもないのだが」
口元を拭いたハンカチを背広のポケットにしまうと、男は堅苦しく居ずまいを正した。
「実はこのたび、結婚することにあいなった」
「…………本当か」
「驚いたか?」
思ってもみなかった言葉に、須藤は思わずたじろいだ。完全に虚をつかれた形だ。
自分と同い歳のこの男――神邉靜ももう三十手前だ。身を固めるなら今がたしかに適齢だろうが……
「だがお前、たしか大臣の娘と来週見合いを」
「そうだ」
上司の娘に惚れられれば、断るのは至難の業だろう。しかもその上司、中野獏には美しい奥方共々、まだ一高の学生時分から書生として面倒を見てもらい、まるで我が子のように良くしてもらっている間柄のはずだ。
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