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にわかにチューニングの音が聞こえてきた。吹奏楽部だろうか。
くぐもった音が、部屋の静寂を優しく壊す。
「いよいよ明日だね」
先生は書き物の手を休めて、ラックに重ねたプリントの束の中から器用に一枚を抜き取った。
桜色の紙に印刷された卒業式の式次第を感慨深い表情で見る先生の横顔を、私もまた感慨深く見つめる。
時間を止めることができればいいのになどと非現実的なことを思う。
せめて瞼に、今をしっかり焼き付けようと私は一つ長い瞬きをした。
各々に奔放だった音が鳴り止み、今度は揃った音色になって耳に届く。
『仰げば尊し』だ。明日のための練習をしているのだろう。
「私が卒業したら、寂しいと思ってくれますか」
演奏に耳を傾けながら呟くと、もちろんだよ、と先生が言った。
「三年生が自主登校になっても佐藤さんとは毎日顔を合わせていたから。明後日からはもう来ないんだと思うと寂しいよ」
先生はずるい。
さも特別な存在かのように私を名指ししておきながら他意はない。
明日卒業する三年生全員に平等に向けられた言葉であり、感情なのだ。
しかし、私もそれをちゃんとわかっているので正しく受け止めることができた。
下手な想像や無駄な期待はもうしない。
「僕らは所詮通過点なんだよね、君たちの人生において」
先生は視線を窓の外に向けて言った。
「いつもここでただ見送ることしかできなくて、後は立派に成長していく姿を遠くから見守るだけ。まぁ、それが僕ら教師の役目なんだけれど、正直なところ、毎年この季節には取り残された気になったりする」
いつになく感傷的な口ぶりに、いつもは飄々と捉えどころのないその本心にふと手が届きそうな気がして、私は慌てて顔を上げた。
しかし、すぐに話はそらされる。
「ところで、向こうでの部屋はもう決まった?」
ややあって、はい、と言葉少なに答える。
私は地元を離れ、東京に進学することが決まっている。
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