一章

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「まったく人騒がせな話だよ。漁場をボロボロにしてまで本土に金をくれてやろう、ってんだから。岩崎もそうさ、今まで島のこと放ったらかしにしてたくせに、金が稼げそうと見たら掌返してさ」  誰も聞いていないのに、島の所有権を持つ地主の文句を垂れ流す。いつものことなので、奈々子も百合子も苦笑をこぼすだけだったが。 「それより、お義母さん。二〇一の合鍵、ありましたか?」 「あったよ。あんた、何で鍵を下駄箱なんかに入れてんだい」 「あらあら、すみません」 「まったく……料理の方は頼むよ。塩と砂糖を間違えるなんて言語道断だからね」 「はい、お義母さん」  華の呆れたため息に、百合子はのんびり笑って返す。性格は正反対の二人だが、嫁姑のトラブルに発展したことは、少なくとも奈々子の記憶にはない。いいコンビなのだろう。 「あ、そうだ。奈々子、帰りのフェリーで他所の人見なかった?」 「他所の人……」  奈々子の脳裏に、不愛想を通り越して失礼な少年と、サングラスをかけたボサボサ頭の男性が蘇る。あまり思い出したくなかったため、すぐに回想をやめたが。 「……いなかったけど、どうかした?」 「そう……電話でね、今日の六時頃に着く予定だ、っておっしゃってたから、あなたの帰りのフェリーに乗れるように時間を伝えといたんだけど……」 「あ~、あれの次の便、八時までないんだっけ」  帰りの船に、奈々子以外の乗客はいなかった。予約した某は今頃、船便の少なさに途方に暮れている頃だろう。 「七時になっても連絡なかったら電話すればいいんじゃない? とにかく私、ご飯食べたら出るね」 「あら、どこ行くの?」 「裏山。十時までには戻るから」 「まったく、いつまで小学生みたいなこと言ってんだい。大学の先生に送るんだか何だか知らないけどねぇ」 「お客さん六時ってことは、ご飯は七時くらいだよね?」 「話は最後まで聞きな、孫よ!」 「もう耳にタコできてるって。私も一緒に食べちゃうから、よろしく」  後半を母に向けて言うと、祖母から逃げるように階段を駆け上がり、部屋に入った。野鳥のポスターを横目に窓を開ければ、風と共に、かすかに磯の香りが鼻をつついてくる。  夜はもう、すぐそこだ。  ***
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