一章

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「ただいま!」  食堂に駆け込むや否や、榎木奈々子は大声を張り上げた。短く切り揃えた髪の下で、日焼けした肌が汗を浮かべている。  大声に反応し、彼女の母が厨房から顔を出した。笑顔は柔らかく、突如として響いた大声を注意する様子はない。 「おかえりなさい。ご飯盛ってあるわよ」 「ありがと!」 「半分くらいおにぎりにしてく?」 「お願い!」  のんびりした声に、投げつけるような声で返す。怒っているわけではなく、ただ焦っていた。久しぶりにヒヨドリの群れを見つけて舞い上がるあまり、朝のフィールドワークに時間をかけすぎてしまったのだ。  今朝のメニューは、白米に大根の味噌汁、シャケ、漬物。民宿を営む家柄が色濃く出たラインナップだが、奈々子に迷いはない。茶碗に味噌汁を一息にぶち込み、さらにシャケをほぐして乗せる。景気よく手を傾けてから一分後には、碗の中身は全て、彼女の細めの体に収まっていた。 「行儀が悪いねぇ。あんた本当に女子高生かい?」  と、後ろから声をかける祖母は、これ見よがしに顔をしかめている。 「あんたの爺さんは野球一筋の体育会系だったけどね、あんたほど豪快な食べ方はしたことなかったよ」 「ごちそうさま!」 「年寄りを無視して楽しいかい、孫よ!」 「ごめん、急いでるから!」 「はい、これ。お弁当とおにぎりね。走りながら食べちゃダメよ?」 「分かってる! 行ってきます!」  最後に漬物を口に放り込み、半ば奪うように食事を受け取った奈々子は、三歩で食堂を出た。洗面所で素早く制服に着替えると、夕べのうちに置いておいた学生鞄を引っつかみ、古い引き戸を壊さんばかりに開け放って、目の前の坂を駆け下りていく。   本土に向かうフェリーの出発時刻まで、あと五分だ。   ***
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