一章

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 *** 「奈々子ちゃん、おはよぉ」 「ん~」  聞こえた挨拶に生返事で応じながら、素早く手を走らせる。今朝見た動物たちの数、体色、特徴が、淀みなくルーズリーフの白を埋めていく。 「相変わらず頑張ってるねぇ。疲れない?」 「好きでやってるし、将来のためでもあるから」 「将来かぁ……奈々子ちゃんってそういうトコだけはすごいよね。大学の先生からも返事もらってるんでしょ?」 「簡単な返事だけど……待って、そういうトコだけは、ってどういう意味?」  眉を寄せて顔を上げた。前の席に座る内海穂乃果は、朗らかな笑みでこちらを見つめている。緩やかにウェーブした黒髪も、きめ細かい白い肌も、まるで物語の世界から飛び出してきた姫君のように美しい。毒舌すら聞き流してしまいそうになるほどに。 「言葉の綾だよぉ。気に障ったのならごめんね?」 「別にいいけどさ。それより穂乃果、一限目って課題あった?」 「地理だよね。ないよ」 「ありがと」  答えると同時に、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴った。自分の席に戻る級友に手を振り、改めてページを眺める。  これまでのところ、書き漏れた内容は見当たらない。清書前の下書きとしては十分だろう。満足して作業を中断し、担任の話に耳を傾けるが、 (ヒヨドリだけじゃなくて、野鳥の数そのものが減ってるっぽいなぁ。獣道もいつもより荒れてるし……タヌキが縄張り争いしてるのかな?)  頭の中では、あれこれとレポートの続きを考えていた。  奈々子は動物が好きだ。きっかけは覚えていないが、五歳の時にはすでに、父が釣ってきた魚を鱗の一枚に至るまで丁寧にスケッチしていたらしい(母親談)。昼夜問わず山と海を駆け回り、動物たちを観察するフィールドワークも、もはや彼女の日常である。  そんな奈々子が生物学者になることを夢見るのは、至極当然のことと言えるだろう。こうしてレポートをまとめているのも、半分は尊敬する大学の教授に送り、見てもらうためだ(もう半分は、純粋に趣味のため)。
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