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いきなりの先輩社員の言葉に悠希は、えっ、と声を詰まらせた。
「そうよ、藤岡くん。何か課長に聞いてもらいたいことがあるのかもしれないけれど、課長の前にまずは私達に相談しなさいよ」
「そうだよな。ここのところ、いつも課長の姿を目で追ってるし、時々ぼおっとしているし。なんだ? 恋か? 恋の悩みか?」
「馬鹿ね。恋の悩みなんか課長にしてどうするのよ。きっとあんたの指導に不安があるから、課長に言うか言うまいか悩んでいるのよね? 藤岡くん」
なんだと、藤岡! と先輩社員が大げさに驚くのを、女性社員と一緒に乾いた作り笑いで受け流して、悠希はそっとため息をついた。
*****
二次会にも行くぞ、と酔っ払った先輩社員に腕を掴まれそうになるのを何とかすり抜けて、体調が思わしくないので帰ります、と悠希はやっとその場を逃げ出すことができた。
夜の繁華街の人並みに気配を隠して、足早に通りを抜ける。明るいネオンの街並みをどんどん背中から引き剥がして、悠希は最寄りの駅へ向かう人気の無い川沿いの道へと進んでいった。
ここまで来てやっと一息つく。はあっ、と口をついたため息は本日何度目だろう。先ほどの飲み会では少し気弱で大人しい悠希は社員達の格好のからかいの餌食となってしまっていた。
とぼとぼと暗い川沿いの小道を歩きながら悠希は各務とのあの熱い夜を想い出す。それはどんなに些細な触れ合いも鮮明に浮かべることが出来た。
もう一週間も前のことなんだ……。
それでも、こんなにはっきりと各務の手や肌や唇の感触を憶えている自分になぜか情けなくなってきた。
課長はいつも一度きりの相手しか必要としていないんだ。だから俺にも、もう二度目はない……。
二人だけの大きな秘め事。その秘密をより濃密にするための一夜の行為。もしかしたら、各務は部下と肌を重ねるなんて危険なことは、したくは無かったかもしれない。
課長の態度が少しも変わっていないのは、本当はあの夜を無かったことにしたいから、なのかな……。
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