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そして、悠希と同じように表情もなくそのさまを見ている人物がいた。それは彼の妻だ。なぜか彼女は位牌も遺影も持つことなく、ただ呆然とその場に立っていた。
彼の棺が扉の向こうへと消えていく。これで彼という個を現していた肉体はこの世から消滅する。
その魂は永遠で、いつかは現世に生まれ変わるのだと聞いたことがあるが、例えこの先、彼と同じ時代を生きようとも、決して自分とは交わることは無いのだなと、悠希は漠然と思いながら彼を見送った。
彼の体が焼き尽くされるまでしばらく時間が掛かるらしい。悠希は彼の親族とともに、設けられた二階の待ち合い室で彼が焼き上がるのを待つこととなった。
待ち合い室と言っても、広いロビーのようなところに何組かの故人がお骨になるのを待つ人々がいて、死んだ後までこうやって順番待ちをしなければいけないのかと、悠希は滑稽に思った。
誰とも面識の無い悠希は、彼だったものが熱い焼却炉から出てくるのを一人待つしかない。それぞれが故人の思い出話などをする中、黙って椅子に座っているのも苦痛になってきて、悠希は待ち合い室を脱け出した。
未だになぜ、こんなところへ連れて来られたのかと疑問に思いながら、火葬場の建物の中をうろうろと歩いた。そして一階へと降りてきたとき、ふと、大きな窓の向こうの景色に目が留まった。
そこには美しい日本庭園が広がっていて、どうやら散策も出来るようだ。窓に近づいて空を見ると、雨も上がり厚い雲が風に流されるさまが見てとれた。
悠希は大きな窓の横にある扉を開けると、外の庭園へと足を進めた。
足を踏み入れてみると、その庭園は結構な広さがあることが分かった。
腕時計で時間を確認して、焼き上がりまではまだ先だな、と思いながら悠希は庭園の奥へと進んでいった。雨に濡れた草木と石畳からは、冬の終わりの清んだ空気が立ち上ってくるようだ。
こんなに気持ちのよい庭なのに、誰も火葬場から出てくる様子は無い。悠希は一人、木立の中を歩いて、やがて庭園の端までやって来た。そこで立ち止まって後ろを振り返ってみる。
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