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身寄りも学もなく、絵を書く事しか生きる意味を知らなかった僕。
ルンペンにも等しい身なりで、憧れだった周防画伯の屋敷門を叩き、弟子にして欲しいと土下座をしたのは十五の時。
画伯は僕の押し付けたスケッチブックを一瞥し、何も言わずに離れの三畳一間の部屋に連れて行くと書生としての仕事や心得などを淡々と語った。
そんな大恩もあり、昭和画壇で新風モダニズムを牽引し、さらに男爵位まで持つ周防画伯の一人娘『百合子』──それが君。
いや、身の程は知っていた。
だからこそ僕は、時折庭先に出てくる制服姿の君を盗み見ては、その全てを目と心に焼き付ける術を覚えたのだから。
決して話しかけることなど許されない。僕という者を目に映してもらう事すら叶わない。
身分違いの想いはそれほど遠く、高い垣根に隔たっていた。
それでも夜になり、書生部屋に戻った僕は、胸に溜めこんだ君を溢れさせて一心不乱に筆を走らせる。そのひと時、確かに僕は生きていた。幸せだった。
僕だけの君が、キャンバスに浮かび上がり少しずつ色付いていく。
それで良かった。
それだけで良かったはずなのに……。
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