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「ううん、なんでもない」
涙を手の甲で拭いながらにっこり微笑むと、彼はそうか…と一言だけつぶやいて目線を前に戻した。
それ以上なにも聞かないところが、彼の優しさであり私への配慮なんだろう。
そんな空気感がえみりは嫌いじゃなかった。
もう…いいのかな……
彼の後ろ姿を見ながらえみりは思う。
この5年間、自分とともに歩んでくれた彼への感謝は言葉では言い表せない。
少しずつ積み重なった彼への思いは、亮介の時のものとは違うけれど、確実にえみりの中を満たしていた。
それでも男女の関係にならなかったのは、彩子たち夫婦への思い。
彼らから託された夢への一歩を一段一段登っていくことは、ある意味えみりにとって呪縛でもあったのだ。
諦めちゃいけない。そしてそうすることで彩子たちもまた一歩を踏み出せるんだと信じていたから。
「ねぇ、今日はもう予定ないでしょ?
お腹すいたからご飯食べに行きません?」
運転席のシートに両手をかけて、覗き込むように言ってみる。
一瞬、驚いたように肩をピクリと動かした彼は、次の瞬間にはいつもと変わらない調子で口を開いた。
「……なにが…食べたい?」
それが精一杯の返事なのだと思うと、えみりは可笑しくなる。
いつもとは違う会話に戸惑う様子が愛しく感じられた。
「ん~そうだなぁ……和食がいいかなぁ……
ちょっと落ち着けてゆっくりできるお店どこか知ってます?」
少しの沈黙の後、いつもの業務連絡のような言葉が返ってくる。
「……了解」
そう言った瞬間、緊張した彼の背中からフッと力が抜けたような気がした。
同時に自分自身も緊張していたのだと気づく。
5年一緒にいて、えみりが彼をこうして食事に誘うのは、実に初めてのことだった。
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